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稲城という町

【地理概略】

稲城市は地勢上、ほぼ南と北に分けて捉えることができます。

南半分は多摩の横山とも呼ばれるよう、典型的な多摩丘陵の地形が色濃く、北半分は多摩川の沖積地であり、これも典型的な大河沿いの平野となっています。
市内にはお隣の川崎市麻生区黒川を源流とする三沢川が流れており、特に丘陵部ではこの川が生活の中心域でありました。
しかし、平尾だけは稲城市内で唯一、多摩川水系に属していないという特異な地域です。

市内には6つの駅があり、多摩川沿いの平野部にはJR南部線の「矢野口」「稲城長沼」「南多摩」が、三沢川沿いには京王相模原線の「京王よみうりランド」「稲城」「若葉台」があります。
※厳密には若葉台駅の住所は川崎市麻生区黒川だが、生活圏としては駅名通りの「若葉台」として市内カウントして考えます。
また、主要道として府中街道・川崎街道・鶴川街道・尾根幹線道路が通り、稲城大橋を渡ると中央自動車道に繋がっていて、『大道の交錯する街』と言っても過言ではありません。
(当ページ上、お手製の見づらい地図ですが交通状況地図を作ってみました)

2010年現在、全国市自治体787市中、面積746位、人口323位、人口密度80位。
人口増加率は55位(2000年→2005年、国勢調査より)。
まだまだ人口が増え続けている町と定義することができそうです。

東京都下では特別区(23区合算)や八王子・青梅・町田など広面積の市がある一方、狛江・国立などの全国でも最小クラスの市があるため、中規模程度の市と言えるでしょう。
東京よみうりカントリークラブ、多摩カントリークラブ、桜丘カントリークラブ、米軍多摩ゴルフ場タマヒルズゴルフコースの4ゴルフ場があるため、市面積におけるゴルフ場面積の割合はなんと日本一。(この事実が名誉かどうかは人それぞれでしょうが)

東京都心から約30分圏内、ベッドタウンとして注目度が高くなっています。
また、ある程度交通網が発達したことから、1970年代から始まる平尾団地の造成、向陽台・長峰・若葉台の多摩ニュータウン開発に伴い人口が急増したことが特徴です。
ベッドタウン=多摩ニュータウンの一画というイメージが確かに強いのですが、多摩川流域の梨や葡萄畑に代表されるように現在でも農業が息づく街としても知られ、三沢川流域では古来よりの谷戸農業が現在も営まれています。

新聞・雑誌やニュースなどでも取り上げられる「南山」をはじめ、緑地が比較的多く残っていますが、それには上述のゴルフコースの多さも関係しており、良くも悪くもゴルフ場のおかげで一部の森林帯が維持されているという側面も見過ごせない事実です。
「南山」にはタヌキ、オオタカ、トウキョウサンショウウオなどが今なお生息し、豊かな自然が残っており、また最近の国内人口減少などとも相まって、その開発を巡っては多くの意見が交わされています。

【歴史概略】

稲城市域は約2万年遡るほど古くから人間が暮らしていた土地で、多摩ニュータウン開発に伴って縄文遺跡が多数発見されています。
しかし残念ながら「石器ねつ造事件」の舞台地ともなってしまった過去があります。

縄文時代に比べると弥生時代の遺跡は格段に少ないのですが、平尾台原遺跡調査からは稲作を行う人間が暮らしていたことが証明されています。

奈良時代に入ると、律令制度上の大国とされる武蔵国国府に近い土地として、国分寺の瓦を焼いたりする集落が存在し、大丸の瓦谷戸遺跡などが発掘されています。
また、式内社に比定される論社が3つ(青渭神社・大麻止乃豆乃天神社・穴澤天神社)も存在しています。

平安期には現市域は多摩郡小沢郷や都筑郡師岡庄に含まれ、坂東平氏の総領筋にあたる秩父一族の小山田氏(町田市小山田が本拠)が支配していました。

鎌倉時代にはこの小山田氏の三男である重成が当地の稲毛荘を支配し、稲毛氏と名乗りました。稲毛三郎重成は鎌倉の絶対防衛線である『多摩川南岸の守護者』として北条政子の妹を娶った鎌倉幕府の有力御家人です。しかし、頼朝死後に北条支配体制構築が進む過程で、邪魔者として排除され、家名を絶たれています。
この頃に市内の古社格である高勝寺・妙見尊・杉山神社などが創建されたと推定されます。

足利新田の南北朝時代には当地も合戦場となり、小沢城(現よみうりランドあたり)が足利尊氏側によって焼き払われているようです。また、戦国時代には上杉家と後北条家の勢力争いの舞台となり、小沢城が攻め落とされていたことなどがわかっています。
戦国期に当地を支配していた後北条氏が滅亡すると、稲城市域の武士たちは帰農、あるいは打ち入りしてきた徳川家の旗本武士となりました。(例:坂浜の冨永家など)

江戸時代には矢野口村、大丸村、長沼村、百村村、坂浜村、平尾村の6つの村落が点在し、現在は通称「稲城市域六ケ村」と呼ばれています。(押立新田村の編入は後述の通り)
ただし、この時代までは稲城という地名も存在せず、また現在の稲城市域に地域としての一体性も存在してはいませんでした。

明治時代に入り、上記六ケ村が合併して「稲城村」が成立しました。稲城という村名は東長沼にあった名門「奚疑塾」の主宰・窪全亮先生の考案と云われています。
由来は荘園制度の稲毛荘にちなんで「稲毛村」という案を政府に提出したが受け入れられなかったため、語感の近い稲城にしたとか、良米が成ったことと、域内にいくつもの山城跡(大丸・長沼・小沢峰)が存在すること、また「いなげ」にも語感が通じるとして「稲城」という名称に決定したのではないかと云われていますが、どれが本当の経緯か定かではありません。

明治デモクラシー期には、自由民権運動の盛んな土地であったらしく、町田を中心としたグループや三多摩を中心とする「北多摩正義派」の勢力が接する地帯で、しばしば意見相違により多摩川原で刀を振り回したなどという言い伝えも残っているほどです。
有名な『新撰組』を輩出した三多摩地域の情熱は、稲城も例外ではないということですね。

1889年(明治22年)に神奈川県南多摩郡稲城村が成立後、三多摩として東京府に移管され、1949年(昭和24年)北多摩郡多磨村(現府中市)から押立・常久の一部(多摩川右岸部出作地)を編入。1957年(昭和32年)に町制施行し、東京都南多摩郡稲城町。1971年(昭和46年)に 市制施行し、現在の『東京都稲城市』となりました。

【まとめ】

昔からの農村落に、後発のニュータウン化が押し寄せ、様々な人々、様々な暮らしが入り混じり、しかし、それが混沌とせず共存共栄している街。これが今の稲城だと考えています。

人口減少社会の中では珍しく「人口増」であることに安心せず、ここで生まれ育ち、またこの地で家庭を築きたいという「世代が循環する街」を目指すことが最善でしょう。
そのためには今ある稲城の良さを活かした発展が必要不可欠であり、この今生きている私たちの時代が、遠い将来に『悪かった時代』と言われないよう、後世に住みよい稲城をつくり残していくことが今を生きる私たちの使命です。

未来のために、今、自分にできることを全力でやり遂げる。
そして、それを連綿と繋いでいくために、私も日々全力で活動したいと思います。
皆様もどうか、数十年以上先の遠い未来の稲城に想いを馳せてください。



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