稲城市向陽台

向陽台地域の課題と打ち手

  •  1988年に街開きされ1995年には国土交通省選定「都市景観100選」にも選ばれた向陽台地区は逆算すると街の誕生から35年が経ったということ。
     当時30歳で入居された方も65歳と定年世代に、40歳で入居された方は75歳で後期高齢者世代になっており高齢化の波が来ている地域であると言えます。
     昨年11月に挙行された稲城市立城山小学校30周年式典にご招待いただきました。城山地区ではアルボの丘完成による子供の増加で一時期息を吹き返した城山小学校ですが、その後は児童数は少ない状況が続いています。
     いつまでも若々しい街として、次の世代にも住みよい場所として誇りを持って引き継げるように現段階のご高齢の皆様には確りとした福祉施策を、そして世代が循環して次の家族がまたこの向陽台・城山を選びたくなる住環境の維持・向上に努めて参る所存です。
  • ※余談ですが、向陽台小学校並びに稲城第五中学校の体育館を夜間のバドミントン練習で頻繁にお借りさせていただいております。学校関係者の皆様にも大感謝!

向陽台(旧・大丸村と旧・百村の一部を統合)

大丸(おおまる)とは「大きいマル・マト(丸・的の形をした平地)」という意味で、古多摩川沿いのオオマト-ノ-ツ(「大麻止ノ津」または、「大真門の津」)という船着き場(津は港という意味)があったといい、現在でも大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんじゃ。)がある。また「丸・的」の名残か当神社は別名・丸宮明神社とも云い、円照寺など「マル」にまつわる寺社が残る。  当地は多摩川の船着き場、渡河点であるのみならず、古代官道の相模道や鎌倉街道上ノ道にも近い。さらには武蔵国古府中の対岸すぐということで、国分寺の瓦を生産した瓦ヶ谷戸もあり、古来よりとても重要な地域であったことがうかがわれる。  地域東部は川崎街道と府中街道の分岐点であり、街として発展しているが、西部一帯は市立病院・清掃工場・水処理センター・米軍施設・ゴルフ場となっており、開発が制限されるため緑が深い。 また地域中央南部は1988年頃より向陽台地区の一部となり、大丸から切り離されている。




 

百村(もむら)は多摩川の支流である三沢川とその支流であった入谷戸、そして現在は都道多摩尾根幹線道路の下に埋まっている『竪谷戸』という大きな谷戸が中心となった地域である。また、向陽台が多摩ニュータウン稲城第1住区として1988年より入居開始となったが、この地区は百村の北部と大丸村の南部、東長沼の飛び地を併せて新規に地区として成立した地域である。  百村という地名は、「モ(襞の多いスカート状を表す裳(モ))」と「ムラ(村、人の住む場所)」という意味か、または「モ(裳」)+「ムロ(山に囲まれた小河谷の盆地)」という意味らしい。 どちらにせよ、三沢川や竪谷戸川に沿った山襞や急峻な崖が多い盆地形から名付けられたものと思われる。「百村」という漢字はモムラに対し江戸時代以降に当てられた佳字とのこと。