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※名所旧跡で現存する寺社は記号で表示しています。


平尾の中心・杉山神社
平尾

平尾(ひらお)は神奈川県を流れる鶴見川の最上流部であり、そのため元は「武州都築郡師岡庄平尾村」として、現在の横浜市の大半や川崎市麻生区などと同じ地域であった。
しかし、江戸時代前期に坂浜等の他地区と一緒に多摩郡に編入された。
明治時代初期には神奈川県に所属。その後、東京府に編入されることになり現在に至る。

平尾という地名は、「ヒラ(傾斜地や平らな土地)」+「オ(峰や川口・麻)」という語源であり、実際の地形から判断するには「緩やかな傾斜の峰のところ」という意味のようだ。

地域の中央を西北から東南へ麻生川(鶴見川支流)の支流「神川」が川崎市麻生区へ流れているため、古来より文化圏が鶴見川に属している。以上のような地勢的理由もあり、生活圏としては分水嶺を越えた稲城市域よりも新百合ケ丘との結び付きが強い。


名所旧跡解説

※掲載すべき、または抜けている名所旧跡がございましたら、ご連絡をいただけると幸いです。
※使用写真は2010年1~6月頃撮影のものが中心になっております。


杉山神社(すぎやまじんじゃ)
  
 
鎮座は長祿年間(1457~59年)とも延徳四年(1492年)とも伝わる、新編武蔵国風土記稿によると稲城市内では坂浜・高勝寺、矢野口・国安社に続く3番目に古い寺社。
御神体は 風土記によると延徳二年と刻まれた銅製銭丸鏡であるが、江戸時代の天保年間に盗賊により持ち去られたため、現在は日本武尊、弟橘姫の木像となってしまった。
現在の本殿拝殿は大正十四年に神饌幣帛料共進神社に指定され遷宮式を伴い造営されたもの。
杉山神社は関東に72社あり、そのほとんどが現在の横浜市を中心とした鶴見川流域に分布している。明治大学非常勤講師・渡辺賢二先生のお話によると、杉山信仰とは農業の源である「水」を育む森としての森林信仰らしい。また鶴見川最上流部にあたるので信仰上ある種の聖地であった可能性も高いとのこと。
府中にある武蔵国総社大國魂神社の六所神社の六之宮と云われているが、証拠となる資料は見つかっていない。
※2012年10月、平尾杉山神社が神奈川県内であった証明書をUP(写真最右)。

堅窂地神(けんろうぢしん)

杉山神社入り口の鳥居左側にあった、現在は本殿の脇に引き上げられている。
正面に堅窂地神、側面に武州多摩平尾村、天保十巳亥年九月と刻まれた高さ70cm程の角柱石。
堅窂地神とは釈迦成道の際に地から現れた仏法守護神(十二天の梵天と対比される地天のこと)だが、農業振興の一環で大地の恩恵、作物の豊作を願って杉山神社に建立されたものと思われる。地神講が平尾にあった記録はない。町田市には多い石塔だが、稲城市内ではここが唯一の堅窂地神である。

宝泉寺(ほうせんじ) ※廃寺
   
真言宗陽谷山大日院宝泉寺は坂浜にある高勝寺の末。建立時期不明。
杉山神社の別当、祈願寺として建立されたが、平尾村は片平の曹洞宗夏蒐山修廣寺が菩提寺であったため、無檀家で衰退、明治期の廃仏毀釈によって廃寺となった。
最後の住持であった梅房尼と智開尼の墓が、杉山神社並びの黒田家墓所(写真左の林奥)にある。
また、戦没者慰霊碑の傍らにも石仏や石塔など、宝泉寺の寺名が刻まれた遺物が残っている(写真右)。
「私の地方史研究(黒田要著)」によると明治三十年頃まで杉山神社の女坂に草庵があったらしい。

姫宮神社(ひめみやじんじゃ)
 
祭神・創立年代共に不明。少なくとも江戸時代中期以前よりあるという古い祠。
祭神の名称であろう「姫宮」とは天皇家の内親王の別称のことであるが、詳細は不明。
菊理媛神(白山比咩神)のような日本神話に登場する姫神や、古代信仰の名残である佐々原比咩命(伊豆国賀茂郡河津町)のような土着信仰の祠であろうか?今後も研究が必要そうである。
※狭小道路改善のため、現在は近隣の旧家庭先に移転されています。(2015/11)

石井家住宅(いしいけじゅうたく)
  
天保十四年(1843年)十月築。大工は金程村の伊藤熊蔵、木引は古沢村の鈴木八十治郎。
稲城市内では建築年代の明らかな玄関構えを持った唯一の遺構として、市行政が修復・管理している。
当時の村行政を仕切っていた名主・組頭・百姓代の村方三役家の自宅兼執務場所の様子がわかる。(玄関・式台・舞良戸など)
※整備要望を続けた結果、トイレ及び外柵が設置されました。今後のさらなる活用に期待です。(2015/11)
※一般団体初の貸出を実施することが出来ました。(2016/3)



入定塚(にゅうじょうづか)

径約20m、高さ3.5mの円墳。室町時代末期の天文五年(1536年)丙申八月十五日に鎌倉の僧・長信法印八定上人が入定した塚。入定とは弘法大師が晩年禅乗に入って遠い未来に弥勒仏がこの世に現れるまで待つという信仰に基づいて、僧侶が瞑想・読経しながら死に至り、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的とする修行のこと。

十三塚(じゅうさんづか)

築構年代、目的ともに不明だが、民間信仰の遺跡と見られる。都内で唯一の十三塚が境界の目印となっている。貞享三年(1686年)に起こった平尾・古沢・片平村の秣場境界問題ではこの十三塚を境とすることで決着した。当時の裁許絵図(馬場家文書)には供養塚として記載されている。

御座松塚(ござまつづか)

正慶二年(1333)五月、新田義貞との分倍河原合戦に敗れた鎌倉方の将士が敗走の最中この地で最期を遂げ、供養塚を作り松を植えたのが始まりという伝説が残る 。明治六年の大雪で松の大樹は650年に渡る天寿を全うし倒壊。昭和四十一年からの団地造成で塚自体も現在の場所に移されることとなった。
『稲城の昔ばなし改訂版』に『平尾の御座松塚』として逸話が掲載されている。

平尾原経塚(ひらおはらきょうづか)

江戸時代中期、宝永五年(1708年)に建立。
日本国六十余州の霊場を行脚し、写経を納めた記念に造られた経典供養の塚。
元々は現在の位置ではなく、すぐ近くの農協平尾支店横にあったらしいが、
平成四年に建物建設のため(隣の山王ビルか?)現在の場所に移されたという。

『平和の郷』石碑(へいわのさとせきひ)

ふれんど平尾から東側に歩いた山中腹に、平尾土地区画整理事業の「平和の郷」碑が建立されている。
碑裏面には平尾の歴史を彷彿とさせる、地元諸氏の心の銘文が刻まれているので一読の価値あり。

木曽駒(きそこま)
 
天然記念物指定を受けた日本古来種の馬・木曽駒「花ちゃん」。出身は信州木曽谷。
個体数が国内で50頭程度と、絶滅の危機にあるため繁殖地として平尾にやってきた、
と説明板にある。(すばるさん設置)
平尾の旧跡というわけではないが、かの木曽冠者源義仲の乗馬であったかと思えば、
立派な歴史遺産といえるので掲載しました。
場所は『特別養護老人ホーム ひらお苑』さんの坂下。傍には稲荷神社も。

平尾馬場横穴古墳(ひらおばばよこあなこふん)
現在の平尾団地汚水処理場付近に三基あった。良好な状態の金環(耳飾りと思われる)が出土した。
出土品は何故か武蔵野市に保管されているという。

黒沢天神社(くろさわてんじんしゃ)
徳川御打ち入りの天正十九年(1591年)から、江戸中期の寛延三年(1750年)まで平尾村の領主であった黒沢家。八幡太郎源義家が活躍したことで有名な前九年の役で滅ぼされた安倍貞任の叔父・良照の後裔と伝わる。その最後の当主となった黒沢杢之助が病弱を理由に家禄を没収され、平尾で余生を送り、死後に住まいがあった上平尾に祀られたものと云われる。
当社は何故か遠く東長沼の八坂神社に合祀されたと黒田氏の著書にあるのだが、該当社の末社には「黒沢天神」が見当たらなかった。


小地名解説

※順不同。上記地図の地名と照らし合わせてご利用ください。
※地名を探す際には「Ctrl+F」ボタンで検索文字列に入力すると便利です。
※使用写真は全て2010年1~6月頃撮影のものです。


橋場(はしば)、橋戸(はしど)
  麻生川支流に橋が架かっていたところ。近くには「はしばハイツ」という建物もありました。


笹山(ささやま)
  笹の生えた山、という意味か。

下田(しもだ)、大下田(おおしもだ)

  下平尾の田圃という意味。平尾八景のひとつ「下田の落雁」の地。

現在の下田近辺(下平尾交差点より)

滝尻(たきじり)
  元は切り立つ断崖で、滝が流れていたという。今も急斜面の面影がある。

滝尻からやや下流部の現在の様子。麻生川に支流が落ち込む。

入ノ谷(いりのやと)
  下谷奥に入り込んだ湿地という意味か。

下谷戸川の現在の様子。

谷向(たにむかい)
  現在の平尾谷戸通りにある旧名主宅前を流れる谷川を挟んだ反対側。
  本拠の向いということか。向山とも云われる。
 
谷向の山を登る道(左)。同地にある「平尾向山児童公園」(右)。

下ノ川(しものかわ)
  麻生川の下、または下平尾の川という意味か。
  平尾八景のひとつ「下ノ川の残照」がこの場所。

現在の下ノ川近辺。(麻生川を望む)

一町田(いっちょうだ)、田島(たじま)
  長さ一町(109m)の広い水田があった。下記の鍛冶窪とほぼ同場所。
  田島はタ(水田)+シマ(川沿いの耕作地)で、田畑群だったということ。

平尾文化通りを挟んで一町田、田島あたりを望む。

鍛冶窪(かじくぼ)
  低湿地の水田だった場所。鍛冶屋があったわけではなく、
  河谷(かち)の窪地という意味らしい。

現在は貯水池のある児童公園になっている。
山王橋という名前が付いているということは、昔には橋があった名残か。

上ノ台(うえのだい)
  平な山頂、段丘という意味。

現在の『はなぶさ幼稚園』あたり。私鈴木の母園です。

山王前(さんのうまえ)
  現在の台原バス停付近に大正時代まで山王権現分祀の日吉神社があった。
  この山王社は大正八年に杉山神社に合祀されている。社のマエ(南)だった場所。

2010年冬現在は、保育園の仮施設になっている。

山王(さんのう)
  同上。日枝山王神社(千代田区永田町二丁目)から分祀した日吉神社があった場所。
  ちなみに、山王社の社殿は杉山神社に合祀される際に平尾下谷の稲荷社に曳かれている。
 
現在、当地には旧名を残すビルが建っている。右は下谷の稲荷社(山王社殿を継承)。

地震谷(じしょういんやと)
  自性院、地庄院とも。江戸時代中期の時点で地震谷と記録されている。
  自性院という寺が存在したが廃寺となり関東大地震(1703年、大正期の関東大震災ではない)か
  江戸大地震(1678年)でこの場所が山崩れしたため、呼称をそのままに当て字したという説がある。
  なので、読み仮名は「じしんやと」ではなく「じしょういんやと」。
 
現在、当地はほぼ埋め立てられ、表通りには商店が立ち並ぶ。

台野(だいの)
  山麓の傾斜地という意味。平尾八景のひとつ「台野の秋風」がこの場所。

台野だったあたり。升屋酒店さんがある。

姫宮(ひめみや)
  姫宮社のある土地という意味。姫宮は天皇家の内親王の別称。
  少なくとも江戸時代中期以前よりあるという古い祠。詳細は名所旧跡解説を参照。

セブンイレブン裏の小道を天道山へ登って行く石段の右手に「姫宮」の祠がある。

入定塚(にゅうじょうづか)
  平尾宅地分譲と川崎市の境目にある。室町時代末期に真言密教の僧・長信が入定した塚。
  入定とは僧侶が瞑想・読経しながら死に至り、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を
  目的とする修行のこと。
  平尾八景のひとつ「入定塚の暮雪」がこの場所。

写真左奥の土盛りが入定塚。柵があるため立ち入りは難しい。
手前の柵には「すばる」さんのと、稲城市の説明掲示版が設置されている。

日向(ひなた)
  南斜面の丘で、畑だった場所。日当たりのよい場所という意味。

久路田(くろだ)
  久保田(くぼた)とも。小川の流れる水田であった。クロ(川べり)の田という意味。
  団地造成以前、旧平尾村の名主・黒田氏の本拠もここにあったことから、
  久路田=黒田で通じる気がする。

平尾小学校(旧第五小)側より久路田を望む。

松葉(まつば)
  北松葉、中松葉、南松葉と続く。
  現在の平尾団地大半を占める広域を松葉(マトバの訛り)と呼んだ。
  団地内の平尾若葉幼稚園あたりに急坂の松葉坂があったらしい。

平尾若葉幼稚園あたりの様子。春には写真の通り桜が満開となる。

南谷(みなみやと)
  杉山神社の南にある谷戸という意味か。
  宝泉寺がこの場所にあったとも云われている。

団地内でも谷戸だった場所と山だった名残の高低差が見られる。

坪田(つぼた)
  麻生川最上流部の支流が流れていた所。川渕の窪みの小さな水田という意味。

坪田のあたりは貯水池を兼ねた児童公園になっている。

番場台(ばんばだい)、馬場原(ばばはら)
  この付近に古くより居を構える、番場氏や馬場氏の名字から名が付いたという説と、
  山の上の平坦地という意味の「ババ(バンバ)」であるという説がある。
  
現在は平尾のメインストリートになっている。旧道に入ると旧家の郷倉が見られる。
この馬場原と番場台という地名の名残で「台原」バス停となったそうな。

山王下(さんのうした)
  現在の台原バス停付近に大正時代まで山王権現分祀の日吉神社があり、
  その山下だった場所。

新地前(しんちまえ)
  現在の稲城第三文化センターあたり。江戸時代以降に新たに開かれた水田の対岸という意味。

学童も併設された稲城第三文化センター。平尾にある諸団体の活動拠点ともなっている。

長畑(ながばたけ)、坂口(さかぐち)
  麻生区向原(旧・細山村)との境目に長細く続いていた畑。現在は読売CCとなっている。
  平尾八景のひとつ「長畑の帰鴉」がこの場所。
  坂口は、長畑へ登る坂道の出入り口という意味。

長畑があった山方面を、第六分団火の見櫓から撮影。

夫婦坂(めおとざか)
  女夫坂とも。本来の坂は急坂の男坂と緩やかな女坂の対となっていたが、
  現在は読売CC内となってるため確認ができない。
 
現在は読売CCに沿って歩く階段の坂道沿いに「夫婦坂児童公園」がある。

田ヶ谷(たがやと)丹後堀(たんごほり)
  タンゴはタガの訛り。田ヶ谷は水田のある谷という意味か。

田ヶ谷方面(写真中央あたり)を、第六分団火の見櫓から撮影。

陣開田(じんかいだ)、陣開山(じんかいやま)
  現在の「ふれんど平尾」(旧稲城第八小学校)の校庭が陣開田という水田であった。
  その後の山が陣開山。
  ジンカイダとは山腹に挟まれた小平地の水田という意味。

陣開田のあった「ふれんど平尾」の校庭。左奥が田ヶ谷で、右奥が陣開山。

後窪(うしろくぼ)
  後(うしろ)は本拠や村の北側という意味。旧家裏の窪地といった意味か。

稲干場(いなほしば)
  村共有の稲干し場があった場所。

付近は現在、住宅やテニスコートになっている。

天台(てんだい)
  山の頂上、高い台地という意味。江戸中期頃まで領主の黒沢家の
  所有林があったため、地頭林とも呼ばれる。

旧家・鈴木家の裏山(天台あたり)には稲荷が祀られている。

庄田(しょうだ)
  現在の天神通り東側にあった水田。清水(しょうず)の訛りか。

現在は美しい景観の街並みへと変貌を遂げている。

後原(うしろっぱら)
  後(うしろ)は本拠や村の北側という意味。旧家裏の原地といった意味か。

現時点では新築戸建て現場となっていた。

段木場(だんきば)
  駄木場とも。ダンは台地、キバは山間の小平地という意味。急坂を登る平尾内の高所である。
  平尾八景のひとつ「段木場の晩鐘」がこの場所。

現在は上平尾の土地区画整理が進み、新たに段木場公園が設置されている。

狢谷(むじなやと)
  多摩地方ではタヌキのことをムジナと呼ぶ。タヌキの尻尾のように細長い谷という意味か。
  『稲城の昔ばなし改訂版』に『ムジナ小僧』として逸話が掲載されている。
  
左・狢谷は現在でも水耕が営まれている。中・狢谷の上部(段木場の茸畑)で撮影したタヌキ(2010年9月)。
右・上平尾土地区画整理事業により、その姿を現した狢谷最奥部の湧水(2012年8月)。
 
同箇所に多3・4・17号線(坂浜平尾線)が開通しました(写真左、2016年5月)。
また、上述の湧水は親水公園として整備されました(写真右、2016年5月)。

丸山(まるやま)、天神社(てんじんしゃ)
  半球形の丸山があった。山頂には天神(菅原道真)が祀られていたが、
  昭和42年に坂浜へ抜ける坂の工事用に埋め土として切り崩された。
  よって、この平尾坂浜間の道を「天神通り」と呼称するようになったらしい。
  現在は梨農家の「山芳園」さんの梨畑となっているあたり。
 
現在、丸山のあった場所と道を挟んだ反対側、三段田の奥に「丸山児童公園」がある(左)。
梨農家の「山芳園」さんの裏山の現況(右)。

宝殿(ほうでん)、八幡前(はちまんまえ)
  江戸時代頃までは八幡宮があったという。宝殿は宮の本殿があった場所か。
  八幡前は八幡宮のマエ(南)という意味。

宝殿、八幡前の現在。多摩ニュータウン計画の立て札が多く設置されている。
現在、谷奥の山腹には法成寺がある。

出口(でぐち)
  農道が原町田道(現在の天神通り)に出るT字路のこと。より広い道に出るという意味。

出口近辺から天神通り・坂浜方面を見る。

山井戸(やまいど)
  イドは溝や水路を指す。山の水路という意味か。
  平尾村領主であった黒沢杢之助が家禄没収後の余生を過ごすためにここあたりに家を建て、
  村人が旧領主のために井戸を掘った場所という伝説もある。

推定地とされる近辺には井戸跡が残っている。当時の名残かは定かではない。

御座松(ござまつ)
  大山道(相模道)の一里塚があった場所と伝わっている。
  現在の説明板がある斜面ではなく、団地造成前までは13号棟付近にあったらしい。
  村境の塚の上に直径1.5mの黒松があったが、明治中期にあった大雪で倒壊した。
  平尾八景のひとつ「御座松の時雨」がこの場所。
  『稲城の昔ばなし改訂版』に『平尾の御座松』として逸話が掲載されている。

現在の平尾から栗平へ抜ける切通しに「すばる」さんの説明板が設置されている。
宅地造成で移動された場所であるため、当時の面影は見られない。

大向(おおむかい)
  本拠地から見て「大いに遠い」「向かい(南)」の耕作地という意味。

平尾団地の西側あたりが大向だった場所。

山田(やまだ)
  その名の通り、山の中の田という意味。

現在はアパートや駐車場になっている。

寺谷津(てらやつ)、寺谷堀(てらやとぼり)
  明治の廃仏毀釈まで平尾に存在した「真言宗 陽谷山 宝泉寺」所領の湿田と推測される。
 
平尾外周通り奥の急カーブ近辺から寺谷津を望む(左)。
寺谷堀沿いの旧家群(右)。近くには水源取水施設もあり、谷川が連想される。

新田(しんでん)
  江戸時代に新たに開墾され、検地された水田という意味。

新田付近の現在の様子を撮影。水田は無いようだ。

焼境(やけざかい)、焼坂(やけざか)
  特別養護老人ホーム正吉苑の西側あたり。
  昔、山火事が起こった時にこの場所で火が消えたとい伝承がある。
  実際にはヤケは作物が日焼けて枯れやすいこと、サカイは境目という意味。
 
現在の焼境あたりの様子と、特別養護老人ホーム正吉苑。

長坂(ながさか)
  その名の通り、長い坂があったという意味。

長坂方面に向かう坂。ここは川崎市との境に近い。

松木沢(まつきざわ)
  現在は日本大学のグラウンドになっている。
  山に挟まれた細長い沢で昭和中期まで湿田があった。
  マツキは松木ではなく、真土(まつち)の訛り。真土の沢という意味だそうだ。
 
大原側から雑木林越しにグラウンド方面を撮影。

平嶽、平武(ひらたけ)
  タケは岳で、頂上が平らな山という意味。隣村の坂浜にも同地名(平岳)がある。
  山頂部は現在の稲城市立第二中学校となっている。
 
ヒラタケが平尾・坂浜学区の中点にあり、平な山頂であったため稲城第二中学校が建設された。
右の写真は小田良通りから撮影、写真内奥の建物が中学校、左奥が松木沢。

大原(おっぱら)、西大原(にしおっぱら)
  そのまま大きい原という意味か、もしくはオハリ(御墾り)で幕命で開墾した土地という意味か。
  西大原は黒川・坂浜・栗木に囲まれた飛び地のように突き出した格好になっている。
 
左は大原の現在の様子、荒地といった感じだ。右は西大原、黒川側の農場地帯と繋がっている。

台(だい)
  台地や段丘という意味。
  新編武蔵国風土記稿には平尾村の東の方から中央までと記載されている。
  『稲城の昔ばなし改訂版』に『台の藪のケヤキ』として逸話が掲載されている。

今ではコンビニ、商店、病院などが軒を連ねている。

千本林(せんぼんばやし)
  現在の団地商店街、とりわけ郵便局・市役所平尾出張所の近辺と云われている。
  文字通り、樹木の本数が多い林という意味。

団地商店街の広場。

白井野(しらいの)
  白井姓の多い野ということか。
 
白井野から天道山に続く小道(左)。全景を「ひらお苑」2階より撮影(右)。

大廻原(おんまわし)
  廻しは円または半円状の回り道のこと。山沿いの大きい回り道という意味か。

蔵屋敷(くらやしき)
  ヤシキ(屋敷)は中世(平安末期~鎌倉初期)の郷村制の地名。
  蔵は土蔵で、裕福な家や武家屋敷という意味。
  水の手の上流を抑える配置が多い中世開発領主の居館。
  大学時代に八王子殿ヶ谷戸の中世居館研究をした観点から見れば、
  ここにも荘園領主の居館があってしかるべき配置。
  是非、平尾にも中世武士の足跡があったことを証明したいのは地元贔屓だろうか。。。

蔵屋敷近辺の現在。果樹園や畑となっている。

御林(おんばやし)
  江戸時代に幕府か領主(黒沢家)の所有林だったということか。

現在も手入れの行き届いた雑木林となっている。

寺ノ下(てらのした)
  明治の廃仏毀釈まで平尾に存在した「真言宗 陽谷山 宝泉寺」の下という意味。

第五保育園の裏山、杉山神社の横手にある戦没者慰霊碑そばに安置された地蔵石の
側面には「武州多摩郡平尾村 陽谷山宝泉寺」の文字が刻まれている。

日向道(ひなたみち)
  向原(旧細山村)境を南北に走る農道。南向き傾斜の日当たりの良い道という意味。

日向道の現在の様子。左の道からは川崎市麻生区向原となる。

宮田(みやた)、宮ノ前(みやのまえ)
  宮(杉山神社)の社領という意味。平尾村の旧領主・黒沢家の寄進地とも云われている。
  宮ノ前は、そのまま、宮(杉山神社)の前の土地という意味。

宮ノ前、宮田と呼ばれたあたりの現在の様子。

日向根(ひなたね)
  日向は日当たりが良い、根は山の麓という意味。

現在の日向根近辺の様子。

栗木坂(くるぎざか)
  平尾21号棟前の階段あたり。栗木村へ抜ける急な坂があったらしい。
  読み方は「くりき」ではなく「くるぎ」となっている。

平尾外周道路の頂上道路部にある階段。階段を上ると川崎市麻生区となる。

瞽女山(ごぜやま)、栗原(くりはら)
  現在の平尾小学校(旧稲城第五小学校)あたり。
  ゴゼは御前の略で、御前(領主)の直轄地という意味か。
  旧平尾村にも瞽女(目の不自由な女旅芸人)が来ており、
  その滞在の費えを捻出する土地だったとも云われる。
  同地にあった栗原は「栗の生えた原」ということか。

平尾小(旧稲城第五小学校)の現況。

下芝原(しもしばはら)
  麻生川の川下の芝草が生えた場所という意味か。

稲荷林(いなりばやし)
  現在の近隣公園近辺には昔、稲荷神社があり、その近辺の林を稲荷林と呼んでいた。

平尾団地造成のため、現在は外周道路の東側へと遷宮された稲荷大明神社。
横の石碑には氏子中(白井氏・番場氏)の遷移に尽力された方々の名が刻まれている。

杉山(すぎやま)
  杉山神社の社寺林のこと。杉山神社詳細は別途、名所解説を参照。
  平尾八景のひとつ「杉山の秋月」がこの場所。
 
杉山神社の本殿拝殿は大正十四年のもの。杉山の遠景。

道光田(どうこうだ)
  ドウコウ(ドウケ)は半球形の地形という意味。緩やかな半球形の地勢にある田圃という意味。
  俗説としては、水田が夕日を反射して道行く人馬の影を映したから道光の田という説もある。

清水窪(しみずくぼ)
  現在の台原バス停東側は清水が流れる窪地であったらしい。
  平尾の民話に登場する妖怪「小豆磨ぎ婆さん」(清水窪の小豆婆さん)の舞台地がここ。
  『稲城の昔ばなし改訂版』に『清水窪の小豆婆さん』として逸話が掲載されている。

現在、清水窪あたりはドラッグストアになっている。

狐山(きつねやま)
  現在の平尾団地50~49号棟あたり。
  北向き山麓の穴に明治時代頃まで多くの狐が住んでいたと云われる。
  「平尾の民話」に登場する「コン友さん」がこの狐らを狩り尽くしたのだろうか?
  両隣の地名「稲荷社」「稲荷林」に准える「キツネ」なので、稲荷信仰の一環で付いた地名か?
  『稲城の昔ばなし改訂版』には平尾を舞台にした狐の話『コン友さん』『狐火』『狐のいたずら』の
  3話が掲載されている。

該当地付近の平尾近隣公園。夏祭りやバザーなどの会場となる。

高札場(こうさつば)

  現在の第五保育園前、戦没者慰霊碑入り口近辺。
  江戸時代の広報掲示版「高札」が掲示されていた場所という意味。
  街道と街道の辻であるため、多くの人目に触れるという想定で設置されたと思われる。

現在の高札場跡。交差点から保育園横の斜面を上がると戦没者慰霊碑がある。

札ノ辻(ふだのつじ)
  札は高札場(上記)のこと、辻は街道と街道が交わるところという意味。

現在の札ノ辻の様子。往来の激しい変則信号交差点となっている。

爆竹場(ばくちくば)
  賽の神の祭りを執り行った場所。ドンド焼き。焼けた竹の破裂する音のする場所という意味。
  現在の下平尾地蔵堂あたり旧道辻で行われていたということ。
  当地にある地蔵堂は『稲城の昔ばなし改訂版』に『道陸神』として逸話が掲載されている。
  
「下平尾地蔵堂」には近隣の旧家の方々により、石仏石塔の収集・保存がなされている。
また地蔵の後ろ側には『道陸神』『賽の神』だったような丸石が隠されていた。

出井田(でいだ)
  川の合流地点の田圃という意味。麻生川と支流がぶつかる場所か。

下前(しものまえ)
  下平尾の南側、といった意味か。

出井田、下前近辺の現在の様子。奥に平尾ゴルフ場が見える。

下谷(しものやと)
  川下の山間の谷、という意味か。現在は古民家や新しいマンションが並列している。
   
「平尾下谷公園」と隣接する「旧名主宅・石井家」。
所有者の石井氏が厚意で市に貸与している家屋だが、公開は年に2回程度。。。

天道山(てんとうざん)
  天頭山とも。天道(太陽)に近い山という意味か。下谷から急坂を登るとその高さを実感できる。
 
天道山に登る途中にある稲荷神社(旧山王社)。春先は横に生える梅が綺麗だ。
右は天道山の遠景。

法井田谷(ほいたやと)
  清水が湧いていたらしい。山間の小平地の田圃という意味か。
  渡辺先生の説によれば、付近の入定塚に関係する(法衣など)地名との推測も。
 
平尾園芸さんの前あたりが比定地。春には大きな枝垂れ桜が雄姿を見せる(2014.3/31追加)。

古沢境(ふるさわざかい)
  南隣の古沢村との境という意味。

平尾と古沢の境は現在ほぼすべてが緑地となっている。

十三塚(じゅうさんづか)
  平尾宅地分譲と五力田との境の所。都内で唯一の十三塚が境界の目印となっている。
  貞享3年(1686年)の裁許絵図(馬場家文書)には供養塚として記載されている。

現在は雑木林となっており立ち入りは難しい。
手前の柵には「すばる」さんの十三塚説明掲示版が設置されている。


「餌さし田(えさした)」 について
所在不詳。「平尾の民話」に登場する水田で、平尾で最も深い田であったことから、下平尾あたりか?
当時江戸近郊に多く設置されていた鷹狩り場(「三鷹市」は世田谷・野方・府中の三つの鷹狩り場から由来とも)で使用する鷹の餌である小鳥を取る職人がその深田に落ちて死んだという由来の地名。
確かに江戸時代の平尾村は府中領の用元だったので、そのような事故もあったのかもしれない。

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