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この度、千載一遇の機会を得て、通常は上陸不可である硫黄島へ慰霊祭斎行のため訪問させていただくことが出来ました。
今後の慰霊・遺骨収集運動の展開を期し、また日本人として先の大戦をどう見つめるべきかを今回の訪島を通じて私なりに文章化しました。
ご興味をお持ちいただける方、長文ですが是非ともご一読賜れますと幸いです。


まず前段として、私が「硫黄島」に興味を持ったきっかけは、少々お恥ずかしい話ですが小学生の頃からの愛読書『週刊少年ジャンプ』にて当時読み切り掲載されたオリンピック馬術競技金メダリスト・バロン西を主役にした漫画(ネットで調べてみると「風と踊れ!~時代を疾走ぬけた男・バロン西~」という題名らしい)でした。
当時小学6年生の私は「何故、オリンピックの金メダリストが戦争に行ったのだろう?」という程度の安直な感想。

しかし、それを契機に、出征した母方の祖父や、戦前に南伊豆から南洋庁サイパン島ガラパン町に移住し料理屋を営み、戦闘前に命からがら(疎開船の多くが沈められた)引き上げてきた父方の祖母(祖父は私が生まれる前に他界)や父から、戦時の話を聞くようになったのは今考えると幸運だったかもしれません。

サイパン島ガラパンにて(父方祖父・昭和18年撮影)

あれから22年、遂に現地に赴くことが出来ました。戦史的な部分や、歴史的経緯は多方面に掲載されておりますので多くを割愛し、私自身が感じたことを書かせていただきます。


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硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に東京都小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。
※Wikipediaより概要を抜粋。

平成27年4月30日(現地29日)、安倍晋三首相による米上下両院合同演説の中で、日本軍の硫黄島守備隊司令官だった栗林忠道中将の孫・新藤義孝衆院議員と、米海兵隊中尉として現地で戦ったローレンス・スノーデン海兵隊中将が紹介され、歴史的な瞬間が実現された。

一年後、本年5月28日の関東地区フォーラム2016in立川リスルホールにて新藤議員から直接お話を伺う機会を得た。
話を聞けば聞くほど、是非とも訪島事業に参加したいという想いが強くなった。

しかし、硫黄島は一般人が行ける所ではない。小笠原海運が主催する「硫黄三島クルーズ」というツアーが年に一度開催されているそうだが、これは海上クルーズであり上陸することは出来ない。島に上陸出来るのは元島民か、ご遺族か、小笠原村関係者か自衛隊或いは同島で働く方(建設会社等)でないとならない。他には厚生労働省などが実施する遺骨収集事業に参加する方法があるが…。
幸いにも私が所属する日本青年会議所関東地区協議会では平成20年に戦後63年で初の民間団体渡航を実施しており、今でも継続している。そこで、渡航者を厳選するための論文応募(応募段階で示されていた文字数を大幅に超過する文量になってしまったが)を経て何とか選抜していただいたという経緯で切符を手に入れた。
実は、これは私自身二度目の応募で、一昨年の平成26年度では「年齢が30歳を超えている」ということで落選…。こちらの事業は青少年や若い方をターゲットとしたもので、これまでも一般募集している。

※こちらは戦後初めて青年会議所が民間航空機をチャーターして訪島事業を実施した時の貴重な領収書、その金額は1千4百7十万円という大金。今回は内閣府・防衛省・自衛隊の全面協力をいただき、燃料費等一人あたり5万円の負担で参加できました。


平成28年8月11日。

埼玉県入間市駅に降り立つ。今から12年前、社会人1年目の約半年間、研修出向先であったリクルートHRM立川支社にて西埼玉地域の一部(入間市・狭山市)も担当営業エリアとして駆け回っていたので、大きくは変わらぬ町並みに懐かしさを感じる。

駅から、汗を拭いながら坂を登り切り「入間第一ホテル」に到着、涼しいロビーにて倉嶋関東地区協議会会長を発見。「お久しぶりです、今回も宜しくお願いします」、3月25日に日本青年会議所会頭の東京ブロック公式訪問にて同席して以来久々の挨拶を交わし、奥の会議室へと入る。

硫黄島訪島に向けた団結式及び前日研修、戦没者の遺骨収集事業に取り組まれている佐波優子氏による講演。本年春、ようやく超党派による議員立法による戦没者遺骨収集推進法が全会一致で可決成立(参議院2月24日、衆議院3月24日)したことを受けて、予算も組まれて今後に期待がかかるが、戦後71年を過ぎているため関係者は高齢化著しく、若者の力が必要不可欠であることを改めて認識させられた。

(左)佐波優子氏の講演の様子、(右)倉嶋関東地区会長と佐波氏と私。


翌12日、早暁。

朝食を済ませてロビーに集合、最終説明を受けつつ500mlペットボトル2本を渡される。現地は真夏のこちらよりさらに暑く、また水資源に乏しいため自分の分は自分で持っていく必要があるからだ。
ホテルを出て少し歩いたところに、自衛隊バス(大型の観光バスのようなもの)が迎えに来てくれていた。案内係の方も、運転手の方も、勤務外でのボランティア協力ということでただただ頭が下がる。
乗車、移動開始後数分もしない内に、窓の外をに銀色に輝く展示飛行機が芝生の上に見えた、早くも航空自衛隊・入間基地に到着した。


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入間基地は、南東北から関東・中部・近畿という広範囲の我が国防空を担当する中部航空方面隊司令部が置かれる主要基地…くらいのことは知っていたが、入るのは初めてだ。
ゲートはバスに乗車したまま通過、そのまま基地内を走行していると、基地内なのに西武池袋線の線路踏切を通る。いつも通勤で電車内から見えていたのはこれか!と感慨深い。
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建物前に到着し、降車。建物内に入る。
基地内の施設外観については、機密上撮影が禁止。(たまに基地内の写真を取って掲載している公職の方もいるが、大丈夫なのだろうか?)
待合室のような部屋に入ると、一人一人の参加者が呼ばれ、金属製の番号札(ドッグタグのようなペンダント)を渡された。万が一(不慮の事故など?)の際の識別用か、それとも別の用途(許可証?)なのか。まぁとにかく首に掛ける。
しばらく部屋内を物珍しそうにキョロキョロ、ウロウロ。そうこうしているうちに「それでは搭乗します、列を作ってついて来てください」と声がかかった。
どこまでも広い飛行場滑走路へと出ると、無数の航空機が整然と並んでいる。まさに壮観といった風景だ。

目の前に小型旅客機のような機体が駐機されている。「お、U-4ジェット機で行くのか!白い機体、スリムな形がカッコイイ!」と思っていると、それを通過。

航空自衛隊ホームページ 主要装備U-4写真ギャラリーより

さらに奥に同型機があり「ああ、こっちの機体だったか」と思っていると、さらにそれも通過…。
さらに奥へ奥へと滑走路を歩く、遠くに停まっている濃緑色のずんぐりむっくりと丸みを帯びたプロペラ機に列先頭が向かう、…「C-130大型輸送機だ!」

航空自衛隊ホームページ 主要装備C-130H写真ギャラリーより

機体に近づくと後部ハッチが上下に大きく口を開け、一同が「うぉ!」と声を上げる。機体側面からタラップではなく、後部ハッチからの乗り込みだ。まるで映画のワンシーン。

機内に入ると、天井や壁面は配管や配線が複雑に絡み、シートといった座席はなく、パイプとナイロンで組まれた簡易な腰掛けが壁沿いに「通勤電車と同じような進行方向横向き」に設置されている。座り心地はお世辞にも良くは無いが、まさかのC-130乗機という興奮で帳消し。発進時、離陸時は「身体の横向きにG(重力)がかかる」という稀有な体験も出来た。

埼玉入間基地から一路1250km、小笠原諸島・硫黄島に向けた約2時間半の空移動、プロペラエンジンは隣人と話すのもままならないような爆音。輸送機の小さい丸窓から外を見ると伊豆諸島が見える。どうやら富士火山帯・伊豆小笠原海溝に沿ったルートで南下しているようだ。

外はひたすらに海。


試しに「新島」を撮影するも、ピントがなかなか合わない。

所定時刻近く、凛とした女性隊員がテキパキと動き、「間もなく目的地に到着します」とのアナウンス(もちろん肉声)。再び窓の外を見やるとこんもりした山と緑の島が見えた、硫黄島だ。

着陸の衝撃に隣人と肩が打つかるも無事着陸、停まると後部ハッチが再び開く。
滑走路に降り立って先ず地面を触る。南国の日差しで熱いコンクリート、この下にも英霊が眠っておられるのだ。上を歩く非礼を詫びて滑走路上を徒歩移動。
コンクリートとアスファルトの所々に、雨を染み込ませるためなのか四角い穴が空き、そこからは小さく黄色い花が、何か伝えたそうに顔を出していた。

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 硫黄島。先の大戦最大の激戦地の一つであり、近年ではクリント・イーストウッド監督による硫黄島プロジェクト映画「硫黄島からの手紙/父親たちの星条旗」(2006年)の舞台地として取り上げられたことで再び有名となった。私も社会人になったばかりの頃、劇場で本作品を鑑賞し、あまりの衝撃にDVDを購入したくらい、個人的感想だが名作だと感じている。
 島自体は東京都小笠原村に属す、活火山の火山島。北硫黄島や南硫黄島と合わせて硫黄列島を形成し、火山性ガス(二酸化硫黄等)やそれが結晶化した硫黄石が島名の由来。
 戦前は「イオウトウ」と呼ばれていたが、米軍接収期に「イオージマ」が定着、2007年3月の小笠原村議会「硫黄島の呼称に関する決議案」を皮切りに、現在はまた「イオウトウ」の名称に戻った経緯がある。
 よって、上述の映画「硫黄島からの手紙」は「イオウジマからの手紙」となっている。

※我が家所蔵の2本セットDVD。特典映像に貴重なフィルムが収録されている。
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海上自衛隊硫黄島航空基地のターミナル建物に入る。多くの在島自衛官の皆様に丁寧にお出迎えいただいた。




基地内なので入間と同じく外観撮影は禁止されていたが、建物内の一部は可とのことで掲示板等を拝見、「硫黄島新聞」(硫黄島新聞社なるものが!)や「島内危険マップ」などに興味を惹かれて見入っていると「マイクロバスに分乗してください」との声。

先ずは島内の厚生館に移動して昼食、こちらの弁当も本土から我々の手で持ち込んだものだ。(道理でやたら大きなダンボールが積まれていたわけだ)


館外への外出は控えるようにとのことで、こちらでも館内を探索。島内の物資の貴重さを物語る張り紙が多数。
自動販売機は売り切れ、「スコールは 命の水ぞ 雲を待つ 島の心を 余人は知らじ」という短歌(川柳?訓示?)が書かれた節水の看板。
携帯やスマホの電波が届かない「絶海の孤島」、隊員のプライベートではこの公衆電話公衆電話が本土との唯一といってよい連絡手段だとか。

隊員の方がいらっしゃり、「昼食を終えられた方、よろしければ隣りの資料室もご見学ください」とのことで徒歩にて隣りの建物に。



銃や軍刀、ヘルメット、ラッパ、戦史詳細などの中、目が止まったのはかの有名な「石井式濾水器」の残骸だった。

絶海の火山島である硫黄島には川がなく、地下水も温泉になら良いかもしれないが硫黄が強すぎで飲めたものではない。スコールと僅かな天然水(火山島ならではの蒸留水?)が文字通り「命」の水であったことが如実に感じられる。



※資料室入り口には訪島記念スタンプがありました。

出発の声がかかり、マイクロバスに乗る。運良く、詳細を案内してくださる方(自衛隊の”K”三佐)の隣に座ることが出来たので色々と質問しながらの移動が出来た。


今回の目的である慰霊祭、島の北東部にある天山の『硫黄島戦没者の碑』に到着。




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 同碑は、硫黄島で戦死・玉砕した21,900人の将兵を追悼するため昭和46年に建立。石碑は納骨箱を型取り、台座底部には遺品の飯ごう、水筒などをステンレス製ケースに入れ、地中に収められているそうだ。
 塹壕戦だったため、暗い地下壕の中で太陽に憧れ、飲料水として雨水を求めた兵士の心境を鑑みて石碑上部を覆う長方形の屋根には天枠が設けられている。
 碑文「さきの大戦において硫黄島で戦没した2万余の将兵をしのび、その霊を慰めるため国民の追悼の思いをこめて、この碑を建立する
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神式にて慰霊祭を執り行う。直上からの日差しを受け輝く石碑、その後ろには大海原が広がっている。本土から遠い絶海の孤島に散華された方々を偲ぶ。


テントの下でもその南国の強い日差しは容赦なく、黒のスーツに汗が滲む。


斎行後は、参加者が持参のペットボトルから石碑に水を掛ける。ある方は、わざわざ靖国神社の手水舎から分けてもらった水を注いでいた。そして、汗がだんだんと染み渡るスーツ姿で、私もペットボトルに口をつける。
何にしても、水である。一説には「3・3・3の法則(3分・3日・3週間)」で「3日間水分を取らないと死に至る」と言われる、その渇望は想像を絶する。

 
再びバスに乗車して移動。

道路の舗装が次第になくなり、悪路が続く。砂利を敷いても台風やスコールで急激に流されてしまい、アスファルトを敷いても火山活動のため隆起やズレが起きてヒビ割れてしまうらしい。現代でも生活するには過酷な環境だ。


島を周回するこの道沿いには一定の間隔毎にヤシの木が見られる。聞くと、これは米軍接収期に距離を認識するために植えられたものだという。他にもパパイヤが群生しているが、これも戦後に建設業者が植えたものという説明をいただいた。

また、ポールやテープにて囲われた場所も散見される。どうやら地雷や不発弾も多く、その箇所箇所に危険を知らせるために設置しているとのこと。71年もの歳月が経っても、なおその兵器達の牙は折れていないのだ。



兵団司令部壕に到着。


道路から、ジャングルが開削された草むらを徒歩で進む。


右奥に小さな洞窟がひっそりと口を開けていた。


中を覗くと、入り口部分の天然感とは別に、しっかりとアーチ状に作り込まれた壕内深くへ階段が続くのが見えた。
こちらは狭いということで、脇に佇む観音地蔵に手を合わせて移動を再開。


次に海軍医務科壕へ。


まず崖面に大きな空洞があるのが目に飛び込んだ。そして、その入口付近は数え切れない大小無数の銃痕。激戦を物語っている。この71年間風化していないような大変硬い火山岩がこのように刳れる弾丸、人間に当たればひとたまりもない。


こちらの大きな壕ではなく、さらに奥側にある入口から、こちらは広さもあるということで内部まで入ることが出来た。


壕内に入ってすぐ、足元には様々な古い機材が転がっている。日本軍の物と米軍の物が混ざっているが、概ねはこの壕内で活動していた日本軍の物だということ。また、そこかしこにツルハシの痕があり、この広い壕が人力の手掘りで掘られたことがわかる。


壕内を奥へ進めば進むほど、何だか蒸し暑く感じる。火山島特有の地熱だ。


途中、天井を見上げると竪穴があり、そこから吹き込む外気が涼しく感じられる。


さらに奥へと進む、蒸し暑いなんてものではない、天然のサウナだ。残念ながら気温計を持ち合わせていなかったが、大体50~60度程が壕内奥側の気温とのこと。


あまりの熱さにカメラが曇り、役立たずに。

先程の慰霊祭から汗滲むスーツは、この時点で水拭きの雑巾のごとく絞れる状態に。


 「猛烈に熱いサウナ、水も無い中、物資潤沢な米軍と戦っていたのだ!」


医務科壕という名前だが、こんな熱い場所ではむしろ体力も奪われただろうと想像を絶するものがあった。何というか、表現のしようが無い。

曇るカメラレンズと吹き出す汗を拭いながら壕の外へ出る。8月中旬の南の島、当然外も暑いわけだが、壕内の暑さに比べれば天国のようなものだ。

汗でぐっしょりと濡れたスーツが重く、ここで上着を脱ぐ。


またバスに乗り込み、移動。
相変わらずの悪路、周囲は鬱蒼としたジャングル。そして、上空から島を見た時は「摺鉢山が目につく以外は至って平坦な島」というイメージだったが、いざ現地を回っているとその起伏の激しさに驚く。深いジャングルとこの起伏、そして総延長18kmとも言われる地下壕とが、物量で完全に負ける中でも長きに渡り戦い続けられた要因なのかもしれない。無論、将兵の意志がそれだけ高く堅かったことが大前提だが。

走行中の車外には、多くの石碑や案内板が見られる。それぞれに「●●部隊が玉砕した場所」と記され、その数は日本側の戦死者約21,900人と比例して当然多い。本来であれば一箇所一箇所を参りたいところであるが、時間の関係もあり車内にて合掌。

硫黄島旧島民、戦没者遺族、小笠原村の中学生や一般村民の方々が寝泊まりする訪島用の「小笠原村硫黄島平和記念会館」という宿泊施設や島の生命線である物資揚陸所・給油施設、うぐいす地獄(?)の噴煙を見ながら、ミリオンダラーホール(ミリオンダラーバレーだったかも。米軍が多くの資機材を捨てたことからこうした名前がつけられた谷間だそうだ)を迂回しつつ摺鉢山を目指す。



摺鉢山の麓、水平砲台跡。錆びついた巨大な砲がそこには座っていた。



砲が向く先を見ると釜石・うぐいす地獄の方面海岸線に座礁した艦船(コンクリート船だそう)が見える。こちら側の海岸は米軍が上陸した浜とは真逆なので、もしかするとこの砲台はそれほど活躍できなかったのかも知れないが、後ろの壁を見ると鉄骨のが残り、ここがトーチカであったことが分かる。話によると1m以上の分厚い鉄筋コンクリートであったが砲撃等で破壊されたとのこと。その破壊力たるや、である。


摺鉢山を登り、頂上に。
慰霊碑、顕彰碑の参拝に再びスーツを着る。



硫黄島戦没者顕彰碑をはじめ、硫黄島支援のために千葉から飛んだ特攻隊の碑など多くの慰霊碑が細長い山頂の尾根部分に立ち並んでいる。

その中で、最も景観の良い場所にあったのが米国の記念碑だ。ここは合衆国海兵隊戦争記念碑に代表されるように、第2次大戦における米軍にとって硫黄島が、摺鉢山がいかに象徴的な場所であるかが、近くにあった何の変哲もない石柱に無数の米兵ドッグタグが架けられていることから伝わってきた。

尚、このとき星条旗を立てた米兵6名の内半分の3名が米国本土へ帰ることなく亡くなったこと、一度は掲げた星条旗が朝になると日の丸に替わったなどの逸話も残る。

山頂からは米軍の上陸地点となった東海岸が一望できる。

また南を見ると丸っこい火山島・南硫黄島がうっすらと見えた。その向こうはウラカス島、もう米合衆国自治領・北マリアナ諸島。父が生まれたサイパン島がある。

硫黄列島は国境の島でもあるのだ。


下山、上陸地である東海岸沿いを基地に向けてバスは進む。


途中で停車し、日米合同慰霊追悼顕彰式が行われた「日米再会の碑」を見学。
碑文には「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」と日本語・英語の両方で彫られていた。


再会の碑から道路向かいを草むらに分け入り、海側へと歩いてみる。




水際作戦に用いられただろう破壊されたトーチカと、火炎放射を受けて変形した機銃がそのまま時を停めて、長年の風雨に晒されていた。
※三枚目は「父親たちの星条旗」特典映像DVDより




どこまでも広い太平洋の海を見ながらふと右側を見やると、先ほど山頂に立った摺鉢山がこんもりと座っている。硫黄島に上陸した米軍兵士が見た光景だ。

米軍は当初計画で「硫黄島攻略は5日間」としており、上陸前の爆撃が丸々3日間、それで島の全ての動植物が焼き払われたという。

※「父親たちの星条旗」特典映像DVDより

摺鉢山が陥落したのは米軍上陸から一週間後、そこから広がる島内各所で戦闘は2月19日から3月26日までの一ヶ月以上に渡り続いた。何故そこまで頑強な抵抗となったか、だ。

硫黄島は当時の戦略上、日本本土爆撃のために爆撃機・護衛機の航続距離の関係から、必要な重要中継地と目されていた、すなわちこの島を守る1日1時間1分1秒が、そのまま本土を空襲から守る1日1時間1分1秒になる。
色んな想いの日本兵がいたとは思う、しかし、この島を死守することが、残してきた愛する家族を、生まれ育った郷里を守ることに繋がっていたのだ。
絶望的な状況の中、渇きに耐え、傷を負い、故郷から遠く離れた絶海の南の島で倒れたのだ。大切なものを守るために。

戦争という極限状態に、傷ついた我が国は懲り、繰り返さぬと誓った。だからといって当事者ではなかった我々現代人が、アレルギー的に、或いは上から目線でレッテルを貼り、蓋をしてはいけない。戦前の世界と日本の状況、その中で戦争という悪手というべき外交手段に至ったこと、開戦後の陸・海軍の足並みの乱れや、各作戦や兵站補給における失敗など、言われることは色々あるだろう。
しかし、この島で、兵は戦ったのだ。文字通り、自らの命を懸けて。過去への感謝と、未来への希望の欠片を抱いて…。

 この方々を英霊と言わなかったら、一体誰が英霊であろうか。

今も多くのご遺骨が、この山の下に、島の下に眠っておられる。この先人たちの遺骨を一つでも多く故郷の地に送り届けたい。これは私に限ったことではなく、この場に来たら全ての日本人が思い至るはずだ。私達、今を生きる者は問われている。


  生きるとは何か。

    命の使い道は正しいか。

      先人に恥じぬ生き様か、それを次代に繋げられるか。



昭和20年時点で時が止まり、南洋の自然が力強く回復し、今も活発に火山が噴煙を上げる、ジオパークと戦跡が混在したような特異な島、硫黄島。
僅か半日の滞在であったが、こんなにも衝撃的に考えさせられた時間は、たかだか34年の半生ではあるが、そうは無い。


硫黄島基地に在勤される隊員の皆様にお見送りいただき、再びC-130輸送機に乗り込み、ほどなくして離陸。

航空自衛隊ホームページ 主要装備C-130H写真ギャラリーより

多くの参加者が疲れで眠りに落ちる中、機長の粋なはからいで同行の少年少女(小学生~中学生)らはコックピット見学をさせてもらっていた。



2時間後、眼下に横須賀・横浜の街並みが見えてきた。ランドマークタワーとベイブリッジが夏の遅い夕日に照らされている。


  ・・・帰ってきたのだ。71年前から。


入間基地に着陸し、早朝離陸前に渡された金属製の番号札を返却、ご同行いただいた隊員、関係各位に御礼を述べ、再度自衛隊のバスに乗車。基地をあとにする。


入間第一ホテルまで送っていただき、再び会議室へ集合して、意見交換会と解団式。
意見交換で同じグループになった女子中学生徒は「もっと多くの人に訪れてもらうべき島だと思う」と感想を述べていた。まさしく、その通りだ。

決して単なる遊び心で行くべき場所ではないが、慰霊ツアーなのか、どんな形にせよ多くの人に「現地の迫力」を実感してもらうことが必要だ。ただでさえ小笠原諸島で唯一の飛行場がある島でもあるので、各種整備が出来るよう、政府の英断にも期待したい。
冒頭記述した、戦没者遺骨収集推進法の実行促進が先ずは急務であろうが。

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今回、幸運にも訪島出来た一人として、少しでも多くの人に伝えるべく、当「硫黄島 慰霊訪島記」ページを作成しました。
皆様に共感いただき、大きくなくても良い、確実に周囲の方に感想を伝えていただくことでこの想いが広がっていくことを願ってやみません。

今回の訪島に際し、ご協力いただいた内閣府、防衛省、自衛隊の皆様、そして同志たる公益社団法人日本青年会議所関東地区協議会・主権者意識醸成委員会の面々にこの場をお借りして改めて深く感謝申し上げます。

そして、渇水と酷暑に打ち勝ち、銃弾に倒れた。家族を、郷里を愛し、命を使って未来に勇気と希望をを残して下さった英霊と呼ぶべき先人達に、微力ながらその志を次代へ繋げていくことをお誓い申し上げます。



※全額私費での活動です。
  公費は一切入っておりませんので悪しからず。



平成28年 秋


硫黄島と同じ東京都内、稲城市より






皆さんの多彩なご意見をお寄せください。
今後の活動の参考にさせていただきます。
時間の都合上、恐縮ですが返信等できない
場合もございますが、必ず一読いたします。
何卒ご了承のほどよろしくお願いいたします。

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