稲城かるた 令和復刻版 特設サイト

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 色は匂へど散りぬるを (いろはにほへとちりぬるを)

  我が世誰ぞ常ならむ (わかよたれそつねならむ)

 有為の奥山 今日越えて (うゐのおくやまけふこえて)

  浅き夢見じ 酔ひもせず (あさきゆめみしゑひもせす)


 稲城かるたは、明治22年4月に村制が施行された「稲城」の地名誕生100年を記念し、稲城青年会議所が主体となり民間事業として市民の手で編纂し、昭和63年11月1日に発刊したものです。
 その後、当会議所30周年(平成17年10月)に解説文の一部改定を加えて再版しました。
 令和の新時代を迎え、発刊当時に比べて大きく様変わりした稲城の街並み。子供たちにより興味を持ってもらうべく専用ホームページを作成し、稲城かるたイラストマップの刷新を図りました。
 赤字覚悟の再版であるため数量限定の復刻となりますが、是非ともお正月などにご家族やご友人と稲城の歴史伝統文化や風情に触れる楽しい一時のお役に立てますと幸いです。





稲城かるたは、『いなぎ発信基地ペアテラス』にて
数量限定販売しております。

直接お買い求めの場合は、
karuta@inagi.infoまでご連絡ください。
※遠方の方で郵送等をご希望の場合、別途送料がかかります。





稲城かるた 【取り札解説】

※以下は、
令和2年12月現在の情報を元に記述しております。間違いや追記などがありましたら、ご連絡いただけますと幸いです。

※今後、「見て聞いてわかりやすい」を目的として、動画作成をする予定です。


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稲城市は 首都の西南 梨の里
【い】(いなぎしは しゅとのせいなん なしのさと)

稲城市は東京都心から西南に約25kmに位置し、多摩川と多摩丘陵にはさまれた水と緑の豊かな街である。古くから稲作や梨、葡萄の栽培が盛んであるが、宅地化の影響もあり水田については徐々に姿を消しつつある。梨の花は四月上旬から白い花を咲かせ、昭和四十八年には市の花に制定された。稲城の梨は多摩川梨と呼ばれ、特産品種「稲城」をはじめ、「「新高・豊水・幸水」等、20種類ほどが栽培されている。八月上旬ころから街道沿いでもぎ取り直売が行われるなど賑わいを見せる。



六間台 遠い昔の 住居跡
【ろ】(ろくまんだい とおいむかしの じゅうきょあと)

六間台とは、百村川北の大地が北東に突き出たあたりの丘陵(台地)のこと。市が遺跡調査会を設けてこの一帯の調査を行ったところ、古墳時代~奈良・平安時代の住居跡など、当時の生活が伺える遺跡が多数発見された。これらのことから原始・古代の人達は、恵まれた環境の六間台に集落をつくって住んでいたものと思われる。



はるかなる 弥生を語る 周溝墓
【は】(はるかなる やよいをかたる しゅうこうぼ)

昭和五十二年に行われた平尾住宅東側の台原(だいはら)遺跡調査の時、市内でははじめての弥生時代の遺構が発見された。そのとき大量の土器や石器、住居跡と一緒に五基の方形周溝墓が見つかっている。周溝墓とは周りを溝で囲ったお墓のことで、弥生時代の位の高い人のものであると言われている。一辺が13m~15mの方形の中に、幅1m~3m、深さ1m程の溝を掘って、死者は中央に葬られている。中には周囲の溝の中に土器に入れて埋葬されていることもある。


入定の 長信坊は 塚残し
【に】(にゅうじょうの ちょうしんぼうは つかのこし)

平尾地区の南部(平尾宅地分譲住宅)に、直径20m、高さ3.5mの塚が残っている。修行僧は旅先で入定(生きながら仏になること)すると仏様になると信じられていた。また、入定して遠い未来に弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に現れるまで待つという信仰から行われたものである。室町時代に鎌倉より長信というお坊さんがこの地にやってきて、湧き水で禊(みそぎ)をし、入定したと言われている。昭和三十四年に発掘調査した時、長信の名が刻まれた板碑(いたび)、古釘(ふるくぎ)、宋銭(そうせん)などが出て来た。



豊作で 青渭神社に 獅子の舞い
【ほ】(ほうさくで あおいじんじゃに ししのまい)

青渭神社(東長沼)は、延喜式(えんぎしき)の式内社(しきないしゃ)と言われている。祭神(さいじん)は青渭神で、郷土の濃厚と生産神に霊験(れいけん)あらたかな神様である。一説にはこの地にかつてあった御沼(おぬま)と呼ばれる多摩川流路跡に水が溜まったような長い沼があったことから、水の神様ではないかとも言われている。青渭神社の獅子舞は、かつては一月十五日の前後三日間に氏子(うじこ)各戸の悪神(あくじん)をはらい、雨乞いと悪病をはらう為に舞われた。現在は、十月上旬の例大祭に豊作を祝い舞っている。舞いは、大獅子(おおじし)、女獅子(めじし)、求獅子(きゅうじし)の三頭の獅子と、天狗による伝説的な物語などを筋にしている。また、近年では氏子中有志による田舎劇も披露されている。



ペダル踏み 堤楽しい 三沢川
【へ】(ぺだるふみ つつみたのしい みさわがわ)

三沢川は、町田市小野路町の源流から川崎市麻生区黒川を経て、稲城市内を西南から東北に流れて、川崎市多摩区布田で多摩川へ注ぐ一級河川である。昔から土地の人々には「みさんが」と呼ばれ親しまれてきた。子供達にとっては、魚や小エビを捕まえたりする絶好の遊び場であった。大雨などの時には暴れ川となり周辺住民も悩まされたが、現在では改修工事がなされている。『三沢川さくら通り』と名付けられ、川の両脇は桜並木が続いている。春には「桜・梨の花まつり」の会場ともなっており、四季の野草、そして鴨や鵜、川蝉、鷺などの多種多様な水鳥を見かけることが出来る。



渡船場へ 行く道々の 月見草
【と】(とせんばへ いくみちみちの つきみそう)

多摩川には古代から渡し船による行き来があった。現在の稲城市内には渡船場が矢野口、押立、常久河原(つねひさかわら)、是政の四か所にあった。旅人には大山道(おおやまどう)として、村人には作場(さくば)渡船道として江戸や調布、府中の宿場町へ通じる道として利用されていた。昭和十年の多摩川原橋の完成、続いての是政橋の開通にともない、渡し船は姿を消していった。


長五郎 孝子の誉れ 語り継ぐ
【ち】(ちょうごろう こうしのほまれ かたりつぐ)

長五郎は、元禄四年(1691)押立村に生まれた。幼い頃に父を失ったが、貧しい生活にもくじけずに母親を助け、健気に頑張る姿は「孝行少年」として近郷に名が知られていた。寛保元年(1741)幕府は、かの有名な江戸町奉行(南町)大岡越前守忠相を通じ、親孝行のほうびとして銀子(ぎんす)十枚(二十枚とも)を与え、さらに空き地の開墾を許した。その後、長五郎はより一層の親孝行をすると共に、新田作りに精を出した。開墾した田畑は一町歩(約9917m2)にもなったそうである。現在でもその田地は『孝行免(こうこうめん)』として語り継がれている。



林間で 友情育つ キャンプ村
【り】(りんかんで ゆうじょうそだつ きゃんぷむら)

坂浜地区の緑豊かな自然の中にあり、市内小学校キャンプや稲城市青少年育成地区委員会のキャンプが実施される、稲城ふれあいの森。野外活動を通じて、自然とのふれあいや集団生活のルール、仲間づくりなどを学ぶ目的で設置されている。また、この同施設は稲城ふれあいの森運営委員会を中心に市民ボランティアなどの協力によって運営されている。



布目瓦 焼いた史跡の 瓦谷戸
【ぬ】(ぬのめがわら やいたしせきの かわらやと)

現在、大丸地区にある在日米軍多摩サービス補助施設(英語名: Tama Hills Recreation Center)周辺の谷は、瓦谷戸と呼ばれていた。これは丘陵の斜面から、古くより瓦が発見されていたためである。川崎街道の北川および大丸城山(おおまるしろやま)に瓦を焼いた登窯(のぼりがま)の跡があり、天平宝字年間(757~765)頃の武蔵国分寺建設のため、その屋根瓦が焼かれたものと言われている。「多(多摩郡)」「都(都築郡)」「橘(橘樹郡)」などの刻印が入ったものが出土している。



るり色の 鳥もさえずる 弾薬庫
【る】(るりいろの とりもさえずる だんやくこ)

昭和十二年、大日本帝国陸軍造兵廠火工廠板橋製造所多摩分工場(多摩火薬製造所)が、稲城村西北丘陵地帯(市内大丸・坂浜両地区と、多摩市連光寺の一部)に設置されることが決まった。面積170ヘクタールを超え、従業員数2000人超えという、当時の稲城村から見ると大規模な施設である。戦後は米軍に接収され、現在では在日米軍多摩サービス補助施設(英語名: Tama Hills Recreation Center)として横田基地等の米兵とその家族らがキャンプ、ゴルフ、球技や乗馬等を楽しむ場となっており、毎夏に「稲城フェスティバル」という日米交流事業、音楽演奏が行われている。「るり色の鳥」というのは、当かるた句を市民公募した頃は、市民が同施設に入れることは滅多になかったため「幻のような鳥がいるというのも面白いのではないか」として選定されたというのが、当時の実行委員の談。


大賀はす 香る由緒の 常楽寺
【を】(おおがはす かおるゆいしょの じょうらくじ)

樹光山常楽寺(天台宗)は永禄元年(1558)に比叡山で修行した僧・良順(りょじゅん)が再興した寺で、境内には多くの石造物がみられる。本尊の木造阿弥陀如来(あみだにょらい)及び両脇侍像、木造閻魔王坐像(えんまだいおう)は共に東京都指定文化財に指定されてる大変優れた寄木造(よせぎづくり)の仏像である。寛文四年(1664)と刻まれた地蔵石仏は、長沼村下新田の人々により造られた市内最古の庚申塔である。境内の大賀ハスは、昭和二十六年に千葉で発見された縄文時代のハスを同四十六年に分け持って来られたものである。



輪のように 「い」の字型どり 市のマーク
【わ】(わのように いのじかたどり しのまーく)

昭和四十六年十一月一日、東京都南多摩郡稲城町は稲城市へと市制施行した。当時の人口は約3万6千人、世帯数は1万1千を超える程度であった。同四十一年、公募により制定されていた町章(稲城中学校1年生・佐藤洋美さんの作品)をそのまま市章として引き継いだ。



合併し 稲城となった 六ヵ村
【か】(がっぺいし いなぎとなった ろっかそん)

明治二十二年四月、平尾、坂浜、大丸、百村、東長沼、矢野口の六村が合併し、神奈川県南多摩郡稲城村となる。当時の人口3750人、戸数593戸。その後、明治二十六年四月に東京府に編入され、昭和二十四年に押立村の一部を編入し、昭和三十二年十一月に稲城町。昭和四十六年十一月に稲城市となり、令和三年に市制施行50周年を迎えた。



世に残る 小沢城址の ものがたり
【よ】(よにのこる おざわじょうしの ものがたり)

小沢天神山城跡は、矢野口の穴澤天神社南側の丘陵地に残っている。平安時代末期~鎌倉時代初期、秩父平氏の有力一族であった小山田氏の系統である稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)の子、小沢二郎重政(おざわじろうしげまさ、または小太郎重政こたろうしげまさ)の居城であったと云われている。当時は現在の稲城市域のほとんどと、周辺の村々は小沢郷に属していたと云われ、この城や周辺を舞台に様々な合戦が繰り広げられた。長尾景春の乱や、北条氏康初陣と伝わる小沢ケ原古戦場などが有名。城址には、空堀、切通し、削平された郭(平地)、古井戸などが今も良く形状を保っており、当時の様子がしのばれる。



大発見 稲城の丘に 古代跡
【た】(だいはっけん いなぎのおかに こだいあと)

坂浜(現在の若葉台あたり)の多摩ニュータウンNo.471-B遺跡は市内でも最も規模の大きな縄文遺跡である。発掘調査により、丘陵の上から縄文時代の住居跡59軒が発見され、大量の土器や石器が出土し、縄文時代の集落の様子が明らかになった。しかし、歴史好きには有名な『ゴッドハンド(神の手)事件』の舞台となってしまった。旧石器捏造事件(きゅうせっきねつぞうじけん) は、日本各地で「~原人」ブームを巻き起こした日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、発掘調査に携わっていた考古学研究家の藤村新一自ら事前に埋設した石器を自ら掘り出して発見したとする自作自演・捏造だったと発覚した事件である。



れんげ咲き 用水堀で 雑魚すくい
【れ】(れんげさき ようすいぼりで ざこすくい)

稲城には市名の通り、稲作を中心とした農家が多く平野には水田が広がっていた。多摩川から大丸用水を引き入れ、良質な米の産地でもあった。用水堀には、鮒(ふな)や泥鰌(どじょう)が多く生息し、子供たちは雑魚すくいをして遊んでいた。農家では、翌年の肥料となるよう水田に蓮華(れんげ)の種を蒔いたので、春にはれんげ草のピンクの班が一面に咲き、梨の白い花、黄色い菜の花、麦の緑とともに稲城の野を彩っていた。現在では、晩春~初夏になると、大丸用水れんげまつりが開催される。



総出して 蛇撚り行事 妙見尊
【そ】(そうでして へびよりぎょうじ みょうけんそん)

妙見尊(百村)では、毎年八月七日に蛇撚り行事を行っている。寛文二年(1662)に妙見様が青龍に乗ってこの地に現れたという伝説があり、北斗七星になぞらえて七人が早朝から青萱(あおかや)を刈り干し、午後には氏子が総出して頭と胴体を蛇の形に撚り長く長く伸ばして石段に沿って這わせる。この蛇をかついだり触れたりすると、災厄や病魔から免れられると信仰されている。また、一月八日に神化(じんが)祭り、冬至には星祭りが行われ、幕末三舟の一傑・山岡鉄舟が書いた「北辰妙見尊」の幟が立てられる。尚、この妙見尊は廃仏毀釈前の神仏習合の姿を色濃く残している。



つわものが 静かに眠る 御座の松
【つ】(つわものが しずかにねむる ござのまつ)

平尾地区にあった『御座の松』は、元弘三年(1333)新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉幕府攻略の途上で行われた合戦(おそらくは分倍河原の合戦か)に敗れた鎌倉幕府方(北条軍)の兵士を葬ったと云われる塚に植えられていた松の木である。この松は、厄除けとして土地の人々に崇められ、病人が出た時はその病人の着物を枝に掛けて厄除けをした。しかし、明治六年の大雪で倒木し、現在の松は平尾団地造成のために土地が削られた後、栗平との境に場所を移して新たに植えられたものである。



念願の 稲城に押立 仲間入り
【ね】(ねんがんの いなぎにおしたて なかまいり)

六村が合併して稲城村となった時、現在の押立地区は多磨村(今の府中市東部)であった。押立は多摩川の北岸に位置していたが、万治二年(1659)の大洪水で多摩川自体の流路が変わり、村が南北に分断されてしまったと記録されている。それ以後、北岸を本村、南岸を『向う押立(あるいは押立新田)』と呼んでいた。しかし、南岸である稲城村に隣接した押立地区は同地の住民にとっても住民台帳が対岸にある生活は不自由も多く、稲城村への編入を望んだ。その運動が実り、昭和二十四年九月に押立は稲城村に編入された。こうした歴史的経緯があるため、対岸の府中市押立と、稲城市押立とで同じ苗字の旧家が多いことも特徴である。



なお残る 銀杏背にした 地蔵尊
【な】(なおのこる いちょうせにした じぞうそん)

矢野口交差点の北東角、矢野口交番のすぐ傍らに地蔵尊がある。正徳三年(1713)に建立されたもので、その背後に地蔵を守るかのように太い幹の銀杏の大木が生えている。元々は地蔵、銀杏ともに道路の南側にあったが、昭和の初めに川崎街道の道路拡幅のために現在地に移されたという。里人の幸せを守る地蔵には、「願主妙覚寺現住愚翁宗益(がんしゅみょうかくじげんじゅうぐおうそうえき)」と刻まれている。銀杏の木は市の木としても人々に親しまれている。



雷神を 祀る氏神 竪神社
【ら】(らいじんを まつるうじがみ たてじんじゃ)

竪神社は百村地区の鎮守で、松の台と向陽台の境、都道南多摩尾根幹線道路を背にして建っており、雷神を祀っている。これは宝暦年間から延享年間に荒れ地であった百村の西北部を開墾した際に、年貢を納める責任を負った名主が、高台で乾燥する新田の豊作と恵みの雨を願って祀ったと伝えられる。記録には拝殿の柱石に「宝暦十四年七月吉日、願主松本權之丞建之(がんしゅまつもとごんのじょうこれをたつ)」と刻まれている。他に慶応四年のキリシタン禁令などの高札五枚が保存されている。



無縁仏 ありがた山で 安らかに
【む】(むえんぶつ ありがたやまで やすらかに)

妙覚寺(矢野口)南側の丘陵斜面に大小約4000体の石仏群がある。「日徳海(にっとくかい)」という宗教団体が昭和十五年~十八年に関東大震災の影響もあり荒廃した現・豊島区駒込近辺の寺院から無縁仏となった石仏や石塔、墓石、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)、観世音菩薩(かんのんぼさつ)、五輪塔(ごりんとう)、宝篋印塔(ほうきょういんとう)などをこの地に運び供養したものである。この石仏らを運ぶ最中、「ありがたやありがたや」と唱えたことから「ありがた山」と呼ばれている。南山東部土地区画整理事業に隣接しており、妙覚寺の墓地と共に鬱蒼とした感が薄れつつある。



裏山で 子どもの遊ぶ 豆乃天神
【う】(うらやまで こどものあそぶ つのてんじん)

大丸の鎮守・大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんじゃ)は延喜式に比定される式内社、平安時代からあったという由緒ある神社である。裏山は多摩川の沖積平野から多摩丘陵に続く山の入り口となっており、自然を活かした子供達の良い遊び場であった。現在では多摩ニュータウンの端としてその一部も開発されている。


威光寺の 山の洞窟 弁財天
【ゐ】(いこうじの やまのどうくつ べんざいてん)

矢野口の山麓にある威光寺(真言宗)境内に、弁財天を祀る弁天洞窟がある。洞窟の壁には大きな蛇の彫り物があり、かつて穴澤天神社下の横穴内にあった十数体の石仏が安置されている。この弁天洞窟は、元々横穴古墳であったものを明治十七年(1884)に現在の形へと掘り広げたものである。昭和五十二年には東京都の地震観測計が設置され、新東京百景にも選ばれて市内外の人々に親しまれてきた。現在は、東日本大震災の影響で洞窟内が危険であるため、残念ながら中へは立ち入れない。筆者が小学生の頃は、友人らと威光寺さんで蝋燭を買い求め、不謹慎ながら探検または肝試し気分で洞窟へ入っていたものだ。



野のほとり 武蔵鐙師 祀る塚
【の】(ののほとり むさしあぶみし まつるつか)

坂浜の天満神社から北側一帯にひらけた台地を、地域の人々は「あぶのっぱら」と呼んでいる。ここには昔、鐙(乗馬の際に足を掛ける馬具)を作る者が住んでいたことから「鐙野原」と呼ばれ、それが訛ったものであるという。鐙師の祖先は高麗(朝鮮半島)より帰化した者の子孫と言われ、当時の武蔵の国(現在の東京、埼玉の大半と神奈川の一部)では高麗川や狛江のような帰化人が住む集落があったことからも可能性が見える。武蔵特有の武蔵鐙は軍用の軽く便利な物であった。鐙塚はその住居跡に気付いた塚で現在では一部が壊されてしまっているが面影は残されている。



おおむらさき 稲城の山に 舞いあそぶ
【お】(おおむらさき いなぎのやまに まいあそぶ)

緑の多い稲城の丘陵には、日本の国蝶(こくちょう)である「オオムラサキ」が生息している。この蝶は雑木林に棲む大型のタテハチョウの仲間でクヌギの樹液を吸う。雄は紫やオレンジ色の美しいまだら模様の羽で、力強く飛ぶ姿は正に国蝶と呼ばれるにふさわしい風格を備えている。メスはオスよりもやや大きく、紫色がなく地味に見える。七月ごろにエノキへ産卵し、幼虫は越冬して六月頃羽化する。雑木林の減少と比例して、生息数の減少も危惧されている。



窪全亮 学名高き 奚疑塾
【く】(くぼぜんりょう がくみょうたかき けいぎじゅく)

窪全亮(素堂そどう)は弘化四年(1847)に大丸で生まれた。はじめ常楽寺の徒弟となり教えを受け、十四歳の時には江戸へ出て星野介堂(ほしのかいどう)、上野寛永寺・勧学寮で大沼沈山(おおぬまちんざん)に漢学を学び、巻鷗洲(まきおうしゅう)のもとで書を修めた。明治四年(1871)稲城に戻りその頃に発足した長沼郷学校や博文学舎で教鞭(きょうべん)をとり、その翌年(1872)新制度で小学校に移行した時も教師を続け、明治十三年(1880)には自宅に私塾『奚疑塾』を開き、小学校卒業者を対象に漢学、習字や算術、法律、英語などを教えた。多摩随一の漢学者と呼ばれ、千人を超すと云われる塾生達は、稲城近辺どころか多摩全域のみならず、遠くは埼玉からも通っていた。今でも、多摩各市町村の政治家等の祖先には、この奚疑塾へ通っていた者が多く見られることからその影響の大きさが分かる。

※当時の稲城地域は神奈川県下にあった。明治四年八月、県は各村へ郷学校の設立を要請した。それと同時という比較的早い段階で長沼郷学校は発足している。
※『奚疑』とは魏晋南北朝時代の文学者・陶淵明「帰去来辞」の一節、「楽夫天命復奚疑」(夫(か)の天命を楽しみて復(ま)た奚(なに)をか疑はん)に由来する。


山並みの 自然を活かし ニュータウン
【や】(やまなみの しぜんをいかし にゅーたうん)

多摩ニュータウンの東端にある稲城地区は、丘陵の自然を活かした新しい街づくりが現在でも進行している。昭和六十三年に向陽台地区の第一期入居が開始され、南斜面に建てられた住宅は日当たりが良く、このことから「向陽台」という新しい地名が付けられた。ガス、電気、水道の共同溝化や無電柱化、緑を多く取り入れた街並みなど、当時全国に先駆けた新しい試みが評価され平成七年には国土交通省選定の「都市景観100選」にも選ばれた。その後には、長峰地区、若葉台地区が順次街開きをして、現在の稲城市内10地区が形作られた。



魔の出水 いくども守り 島守社
【ま】(まのでみず いくどもまもり しまもりしゃ)

押立は古くから多摩川の氾濫に悩まされてきた地域で、大洪水により村が南北に分断された歴史を持つ。分断された村人たちは、対岸(府中側)の押立本村に半年もの間行けなかったこともあったそうだ。洪水に対する恐怖、自分たちの地域を守りたいという村人の願いが、島守神社への信仰として残った。俗に天王様とも呼ばれ、祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)で、天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)、秋葉大神(あきばたいじん)と共に祀られている。毎年七月に例大祭が行われる。



剣豪の 誉れは高し 中山伝蔵
【け】(けんごうの ほまれはたかし なかやまでんぞう)

中山伝蔵は、元治元年(1864)坂浜に生まれた。幼少のころから道場に通い、新選組等で有名な天然理心流を修めた。東京の四ツ谷花園町(現在の新宿あたり)に道場を構えながら、尾張藩の真貝忠篤(しんかいただあつ)の門下となり、田宮流抜刀術の奥義を受けた。伝蔵は棒術・薙刀(なぎなた)・鎖鎌(くさりがま)などにも優れていたという。明治の中頃、坂浜に伝喜館(でんきかん、中山道場とも)を開き、隆盛期には近郷近在より通うもんとは300名を超えたと伝わる。



筆塚は 学びの道の 道しるべ
【ふ】(ふでづかは まなびのみちの みちしるべ)

筆塚とは、教育者や書家の功績を称え、弟子たちによって建てられたものである。昔は学業成就のために使い古した筆を供えたという。村人からは「筆塚様」と呼ばれ崇められた。矢野口の穴澤天神社には、原田金陵(はらだきんりょう)天真堂(てんしんどう)が、他にも常楽寺に南街堂(なんかいどう)、第二小学校に榎本豊吉(えのもととよきち)、妙覚寺に角田すず女(かくたすずめ)、百村妙見尊に百瀬雲元(ももせうんげん)の筆塚がある。これらは江戸後期の教育に関わる研究資料として大切な石碑である。



高勝寺 天然記念の 榧そびえ
【こ】(こうじょうじ てんねんきねんの かやそびえ)

坂浜にある岩船山高勝寺には、幹まわり約6m、高さ約25mに達する大きな榧の木がある。この木は樹齢六百年とも云われ、東京都の天然記念物に指定されており、市内外の人々に親しまれている。高勝寺は歴史ある大寺であり、欅(けやき)一木造りの聖観音菩薩像(東京都重要文化財)など、多摩丘陵に残る古い貴重な仏像が多く納められている。天神通りの京王相模原線を跨ぐ陸橋から榧の木を眺めると、線路が木を避けるかのように微妙にカーブしているのが見られて面白い。



円照寺 舌を抜かれた 獅子の池
【え】(えんしょうじ したをぬかれた ししのいけ)

大丸にある大寿山円照寺(臨済宗)の境内には、民話「舌を抜かれたお獅子さん」で地域の人々に親しまれる池がある。この民話は、祭礼の時に舞う獅子が、ある時にこの溜池の水を飲みほしてしまい、和尚に舌を抜かれた。それ以来どんな日照りでも池の水が枯れることは無く、田んぼは豊作が続いたという内容の話である。円照寺は、明治以降は大円学舎(おおまとがくしゃ)という教場になり、以後は大円学校、済美学校として、稲城の教育に大きな役割を果たした。



天に咲く よみうりランドの 大花火
【て】(てんにさく よみうりらんどの おおはなび)

よみうりランドは単なる遊園地にとどまらず、レジャーやスポーツに留まらず、宗教施設(観音堂)や緑地を備え、近年にはジュエルミネーションで注目を浴び、新たなフラワーパークHANA・BIYORIもオープン。この先数年をかけてさらに増設されることが決定している。昔は夏に花火を打ち上げていたが、近年では前述のジュエルミネーションとコラボして、打ち上げ花火と大迫力の噴水ショー「ラ・フォンテーヌ」などを冬に開催している。


穴沢の 社に江戸の 里神楽
【あ】(あなざわの やしろにえどの さとかぐら)

穴澤天神社は矢野口地区の鎮守であり、延喜式の式内社にも比定される古社である。江戸の里神楽(国指定重要無形民俗文化財)は、衣裳、面を着け舞う無言劇である。江戸中期頃までは舞いが主であったが、古事記などにしたがい物語風に劇化された。同社の神職である山本家に代々伝わっている。毎年八月下旬の穴澤天神社の例大祭に、神楽殿で奉納され、古代の風習をしのばせる。



座禅くみ 修行にはげむ 普門庵
【さ】(ざぜんくみ しゅぎょうにはげむ ふもんあん)

普門庵(臨済宗)は大丸にあり、昔から村人たちに観音様と呼ばれ親しまれていた寺である。本堂は水月堂(すいげつどう)と呼ばれ聖観音菩薩が安置されている。また、この寺は名僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)和尚のために、三代将軍徳川家光が創建した品川・東海寺(とうかいじ)の別院でもある。坐禅は一般にも開放され、多くの市民が「無心の境地」に入る修行を体験している。sらに、写経や法話の他、祈念では『寺小屋ヨガ教室』も開催されている。



境界の 決め手になった 十三塚
【き】(きょうかいの きめてになった じゅうさんづか)

平尾の南部(平尾宅地分譲住宅地)と川崎市麻生区五力田との境に、高さ1m程度の小さな塚が13基一直線上に並んでいる。十三塚は中世頃の民間信仰の一環で造られた供養塚と云われ、東京都内で現存する唯一のものである。僅かな距離に上述の入定塚もあることから、この付近は一種の聖地であった可能性もある。貞享三年(1686)に、平尾村と片平村(今の五力田)と古沢村の三村が境界争いをした際に、幕府がこの十三塚と入定塚を境界の裁定基準にしたと記された絵図、裁許状が馬場家文書(武州都筑郡片平村古沢村与同郡平尾村野論之事)として残されている。



友愛の スポーツ交流 北緑地
【ゆ】(ゆうあいの すぽーつこうりゅう きたりょくち)

稲城北緑地公園は市の北部、多摩川と大丸谷戸川に挟まれた場所にある。遊具をはじめゲートボール場、テニスコート、ピクニック広場があり、多摩梨(たまり)パークにはバスケットコートとスケートパークが併設されている。多摩川中下流域で数少ないバーベキュー可能な場所であることからも休日には混雑している(バーベキュー利用には事前届け出が必要です→詳細こちら)。また、多摩川堤防にはサイクリングロードがあり、ジョギングや散歩を楽しむ人も多く、近年では下の河川敷を会場にした稲城クロス大会も開催されている。稲城市民憲章も謳われる「友愛の街、稲城」が感じられる場所のひとつでもある。



めずらしく 民話の残る 雁追橋
【め】(めずらしく みんわののこる がんおいばし)

東長沼上新田の津島神社近くに用水路に架かる雁追橋があり、『昔、この橋の近くに大変美しく気立ての良い娘が移り住んできた。村の男たちは野菜や果物を持って行きこの娘の気を引こうとしたが、何を言ってもとり合わず、男たちを追い返した。その様子が、多摩川に降りては飛んでいく雁のようであった。やがてこの娘も年をとり、村人たちは「雁追い婆さん」とあだ名し、この橋を雁追い橋と呼ぶようになった』という民話が残されている。この民話に登場する娘=雁追い婆さんだが、御殿女中(幕府の大奥務めか?)という説もある。



妙覚寺 観音様と 梅林
【み】(みょうかくじ かんのんさまと うめばやし)

矢野口の京王相模原線京王よみうりランド駅すぐ傍にある雲騰山妙覚寺(臨済宗)は、川崎市多摩区菅の寿福寺住職の隠居寺として永禄四年(1561)に建立された。寺宝の十一面観音菩薩の胎内仏(たいないぶつ)は7-8cmの小立像で、江戸名所図会によると、戦国時代から江戸時代にかけて長坂血鑓九郎(ながさかちやりくろう、長坂信政か)という徳川の旗本が兜(鎧?)に納めていた守護仏と伝わっている。観音堂に安置され、午年(うまどし)の四月にのみ開帳される秘仏である。境内には享徳三年(1454)の銘がある市内で一番大きい板碑がある。「春寒し 観音の寺 梅の寺」と、かの井上靖も同寺で詠んだほど梅をはじめとした花々の名所でもある。



しきたりで 今なお残る お日待講
【し】(しきたりで いまなおのこる おひまちこう)

お日待講(庚申待とも言う)は、庚申(かのえさる)の夜に、講の者が集まり夜を明かす民間信仰である。これは、この夜に寝ると体内の三尸の虫(道教でいう三虫のひとつ)が抜け出して天帝にその人の罪や過ちを告げ、命を縮めると云われた。この庚申信仰(こうしんしんこう)は江戸時代に非常に盛んになり、青面金剛(しょうめんこんごう)や三匹の猿を刻んだ石塔が多く建てられ「庚申様」として祀られた。現在でも、庚申信仰の石造物は全国でも多く残り、お日待講は地域の人々によって定期的に開かれる親睦会などに形を変えて残っている。



絵のごとく 四季の多摩川 陽に映えて
【ゑ】(えのごとく しきのたまがわ ひにはえて)

多摩川は、長い歴史と共に川沿い近郷の人々に大変親しまれてきた。昔は奥多摩、青梅のあたりから筏(いかだ)が下ってきたり、屋形船が行き来し、川遊びやお花見を楽しんでいた。最近でも川原には多くの水鳥の姿が見られ、河川敷には野球やサッカー、ラグビー等のスポーツ競技場もあることからたくさんの人々に親しまれている。川辺から見る風景は、多摩丘陵や、遠くは秩父、丹沢の山並みが見渡せ、四季折々の景観はまさに絵の如しである。



火を囲み みんなで楽しむ 賽の神
【ひ】(ひをかこみ みんなでたのしむ さいのかみ)

賽の神は、正月に飾った松飾りなどを焚き上げる火祭りで「どんど焼き」など多くの名称で呼ばれている。竹、藁、萱で円錐形の小屋を作り、その中で餅を焼いて食べたりして、楽しい語らいの時を過ごしている。かつては一月十四日に点火されるまで、その催しは一週間も続いていた。現在では十五日あるいは成人の日に合わせて周辺住民が持ち寄った正月飾りや書初めなどと共に燃やされる。稲城市内の各地域で行われ、地域の人々の正月を象徴する行事のひとつとなっている。



盛り上がる 市民の集い 文化祭
【も】(もりあがる しみんのつどい ぶんかさい)

昭和四十八年に創立された稲城市芸術文化団体連合会による文化祭芸術祭は、市民の芸術や文化活動を目的として50年以上の長きに渡り毎年テーマを掲げて実施されている。現在では『Iのまち いなぎ市民まつり』の開催前日から同まつり最終日までの三日間、稲城総合体育館メインアリーナを占有して大々的に催される。日頃励んでいる芸術文化活動の成果を発表する場であると同時に、市民の心を繋ぐ貴重な機会ともなっている。



関流の 和算を学ぶ 小俣塾
【せ】(せきりゅうの わさんをまなぶ おまたじゅく)

小俣勇造(おまたゆうぞう)は、天保十一年(1840)矢野口に生まれた。幼少期より数学が得意で、明治十年(1877)東京に出て、和算塾・順天堂求合社(じゅんてんどうきゅうごうしゃ)の福田理軒(ふくだりけん)から関流和算を学ぶ。矢野口に戻り小俣塾を開き、遠くからも門人が集い数百名を抱える和算の一派をなした。関流和算とは、江戸時代の数学者・関孝和(せきたかかず)が創始し、円の面積や微分積分の領域まで含んだ数学である。穴澤天神社の境内に建てられた『小俣君寿碑(おまたくんじゅひ)』は郷土の生んだ教育者の功績を称えている。



過ぎし世は 大山街道 葎草橋
【す】(すぎしよは おおやまかいどう りっそうばし)

大丸用水路の長沼と押立の村境にかけられた橋、かつては板橋だった。この橋を渡る道が多摩川の渡船場に通じる大山道で、八王子、府中、川崎へ通じる幹線道路であった。天保九年(1938)に長沼と押立の両村が協力し、御影石を使った石橋にかけかえた。この橋の完成を記念して「渠田川(こたがわ)や 多摩の葎(むぐら)の橋ばしら 動かぬ御代の 石と成蘭」の歌碑が橋のたもとにたてられ、いまでも残っている。

※葎とは、生い茂って藪(やぶ)のようになるツル草の総称。ヤエムグラ等
※大山道(おおやまみち・おおやまどう)とは、主に江戸時代の関東各地から、相模国大山にある大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の総称。


京で修行 陶工紫水の 玉川焼
【京】(きょうでしゅぎょう とうこうしすいの たまがわやき)

紫水(しすい、利兵衛りへえ)は江戸時代の後期、坂浜で『どびんや』の屋号をもつ土瓶やすり鉢などの雑器を代々焼いていた窯元・榎本家に生まれた。若いころ、京都で陶芸の修行に励み、のちに家に戻って調布軒紫水(ちょうふけんしすい)と号した。そして『○に玉』印を商標とする『玉川焼(たまがわやき)』という投棄を作り世に名を遺した。現在、同榎本家には抹茶茶碗、水差し、香合などの楽焼が遺品として残されている。また、E・S・モース博士(近代考古学)が米国に持ち帰り、ボストン美術館にも5点が保管されている。

※上述の瓦谷戸の項で触れた、多摩郡(玉)の刻印を商標としたと云われている。
※末札の「京(きょ)」は拗音の発音、上がりの意味など諸説あり。




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