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島守神社境内 |
押立
押立(おしたて)は昭和二十四年(1949年)と最近まで『北多摩郡多磨村(現府中市)押立』の飛び地であったため、対岸の川北から見て「向島」「川向新田」などの別称も持っていた。
江戸の万治年間(1658~1703年)頃まで、このあたりの多摩川は南北の二流に分かれており、その中島に多摩郡押立村の村人が新田開発を行って『押立新田村』が誕生したと伝わっている。
押立という地名は、多摩川の氾濫で土手を押し切り土を盛り立てる様に由来すると云われている。
「オシ(押す、横から力を加える)」と「タテ(立つ、起つ)」という語源で、ここの地形成り立ちから判断するに「多摩川の強流による圧力が、島を起こした場所」といった意味であろう。
川の中島であった名残で、多摩川に沿ったアーモンド形の町区画となっている。また、町中はいたるところに用水路が通り『水郷』の様子を呈している。昭和期まで府中の押立本村の一部であったため、現在でも府中市との繋がり強く残っているということだ。 |
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名所旧跡解説
※掲載すべき、または抜けている名所旧跡がございましたら、ご連絡をいただけると幸いです。
※使用写真は全て2010年11月末頃撮影のものです。
島守神社(しまもりじんじゃ)
押立地域の鎮守神社であり、どうやら多摩川の洪水除けを祈念しているようだ。
「天王様」とも呼ばれている。祭神は天照皇大神、秋葉大神、素盞鳴尊。
元々は村の西側にあった神明宮が明治十五年(1882年)当地に遷座された。
「魔の出水 いくどもまもり 島守社」という俳句が 島守神社の標柱の側面に彫ってある。
また、洪水に対する配慮か、社殿が高床になっているのが特徴的。
稲荷天神社(いなりてんじんしゃ)
天神上にあり、多摩川の堤防に面した場所に鎮座している。大きな木の根元にある小社。
押立新田として開発された島『稲荷島(とおがっちま)』の由来とも関連しているだろうか。
扁額は『天満天神社』となっていたが、波除天神・水除天神などとも呼ばれ、島守神社同様に
多摩川に対する水害対策の神様の意味合いを持っているようだ。
孝子長五郎の墓(こうしちょうごろうのはか)
当時、世田谷領押立村に住んでいた長五郎は母へ孝行を尽くしていることが近郷で大評判であった。
寛保元年(1741年)に、評判を聞きつけた江戸幕府から孝行の賞として銀子10枚(20枚とも)と
向新田の土地(孝行免)と開墾料を与えられたという。しかも、この採決を計らったのが江戸の町奉行で
有名な『大岡越前守忠相』という話。
『稲城の昔ばなし改訂版』に『孝子長五郎』として逸話が掲載されている。
押立の渡し(おしたてのわたし)
押立の渡しは、現在の稲城市押立と府中市押立町を結ぶ渡しで、島守神社の下流に渡船場が設けられていた。渡しの正確な場所は、多摩川の流路変更によって上流及び下流に時々に変動している。
昭和十年、下流に多摩川原橋、昭和十七年には上流に是政橋が架かり、需要が少なくなって廃止された。
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小地名解説
※順不同。上記地図の地名と照らし合わせてご利用ください。
※地名を探す際には「Ctrl+F」ボタンで検索文字列に入力すると便利です。
※使用写真は全て2010年11月末頃撮影のものです。
天神上(てんじんかみ)
付近に鎮座する稲荷天神社(天満天神社)=テンジンのある土地で、
カミ=多摩川の川上(西側)に位置する場所という意味。
現在は多摩川堤防の下であり、河原となっている。
葦などの背丈が高い草で埋め尽くされていた。
天神下(てんじんした)
稲荷天神社の東側から押立の渡しがあった場所あたりまでの土地。
川上(西)に対して川下(東)にあたるので天神下。
上をカミと発音するので本来なら対の下(シモ)のはずだが、何故か下(シタ)と発音する。
明治四十三年と昭和三十三年の台風で、この場所の堤防が決壊したとのこと。
天神上同様、こちらも堤防下の河原。
孝行免(こうこうめん)
孝子免とも。上述の名所旧跡解説にある『孝子長五郎』に与えられた土地。
親孝行な息子・長五郎に与えられた租税免除の土地=『孝行免』ということ。
ちなみに与えられた当地の広さは2町歩(約2ha程度)、開墾費用と銀貨も貰った長五郎は
やはり他の村人から羨望の眼差しで見られていたのであろうか…?
現在架かっている稲城大橋から東側一帯の地域が孝行免。
稲荷免(いなりめん)
この場所には寛文年間(1661~1672年)まで稲荷社が祀られていたという。
その稲荷社を運営管理するための租税免除地となっていたことから『稲荷社の免地』と呼ばれた。
稲荷社は廃されたのではなく、代官の川崎平右衛門が押立本村(対岸の府中市)に遷座したと伝わる。
現在は多摩川の川原で、野球場など地域のスポーツに活用されている。
稲荷島(とおがっちま)
そのまま読んで、イナリジマとも。多摩川の中島であったのだろう。
押立地区の形を小さくしたようなラグビーボール形の島であったという。
読み方のトオガからは尖った島という意味が推測され、『稲荷』の佳字を前述の稲荷社にちなんで当て字したものであろうか?
押立地域は元が中島であるため森林がなく、解決策として昭和十年代に埼玉にてニセアカシアの苗木を買い入れ、稲荷島の土手に植えたと云われている。現在の『アカシア通り』の由来ともなっている。
稲荷島の西端部分の尖った形状の面影を残す尖った交差点(左)。
アカシア通り沿いの堤防土手にはニセアカシアの木々が生い茂る(中・右)。
上関(かみぜき)
東長沼と葎草橋で境を接する、押立新田村の西端。
正保~慶安年間(1644~1651)に水利として用水の引水堰を3か所設置したと記録が残る。
押立地区内の用水路は北西→南東に流れており、これを川上から『上堰・中堰・下堰』と
呼んでいたのではないかと思われる。
上関の名を冠した公園が設置されていた。またお洒落な梨花幼稚園も当地にある。
中関(なかぜき)
前述の上関と同じ由来であり、上流から数えて2つ目の堰があったので中関と言われたのだろう。
押立の渡しへ続く渡船場道が南北に通っていた場所であり、押立地区の中心部に位置する。
中関児童公園がある(左)。近くには2つの由来不明の祠を祀る一角があった(中)。
ここは水田が残っており、『日本晴』を栽培している(右)。撮影当日は脱穀作業をしていました。
下関(しもぜき)
前述の上・中関同様、上流から数えて3つ目、最下流の引水堰があったあたりの名称。
また、上・中・下関は江戸時代前期に対岸の押立本村(府中市)や坂浜村(稲城市)から農家の次男三男が多く移住し、開拓にたずさわったと伝わっている。
押立地区内を通る用水路の最下流部。
私が体育館開放指導員を担当している「稲城市立第四小学校」が当地にある。
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