平尾
平尾 小字・小地名図
- ※名所旧跡で現存する寺社は記号で表示しています。
- ※江戸時代に作られた平尾村全図。南が上で北が下になっているので注意。
平尾村
平尾(ひらお)は神奈川県を流れる鶴見川の最上流部であり、そのため元は「武州都築郡師岡庄平尾村」として、現在の横浜市の大半や川崎市麻生区などと同じ地域であったが、江戸時代前期に坂浜等の他地区と一緒に多摩郡に編入された。明治時代初期には神奈川県に所属。その後、東京府に編入されることになり現在に至る。
平尾という地名は、「ヒラ(傾斜地や平らな土地)」+「オ(峰や川口・麻)」という語源であり、実際の地形から判断するには「緩やかな傾斜の峰のところ」という意味のようだ。
地域内中央部を西北から東南へと、鶴見川支流の麻生川のそのまた支流「神川(ジンカワ:陣川とも)」がほぼ暗渠状態で川崎市麻生区へ流れている。こうした地理的条件から古来より文化圏は多摩川ではなく鶴見川に属しており、現在も生活圏としては分水嶺を越えた多摩川流域が大半を占める稲城市内と同じくらいに麻生区や町田市等との結び付きが強い。
名所旧跡
- 杉山神社(すぎやまじんじゃ) 鎮座は長祿年間(1457~59年)とも延徳四年(1492年)とも伝わる、新編武蔵国風土記稿によると稲城市内では坂浜・高勝寺、矢野口・国安社に続く3番目に古い寺社。風土記によると延徳二年(1490年)と刻まれた銅製銭丸鏡がご神体であるが、江戸時代の天保年間に盗賊により持ち去られ、現在は日本武尊、弟橘姫の木像となっている。現在の本殿拝殿は大正十四年に神饌幣帛料共進神社に指定され遷宮式を伴い造営されたもの。
杉山神社は関東に72社あり、そのほとんどが現在の横浜市を中心とした鶴見川流域に分布している。明治大学非常勤講師・渡辺賢二先生のお話によると、杉山信仰とは農業の源である「水」を育む森としての森林信仰らしい。また鶴見川最上流部にあたるので信仰上ある種の聖地であった可能性も高いとのこと。
府中にある武蔵国総社大國魂神社の六所神社の六之宮と云われているが、証拠となる資料は見つかっていない。
※2012年10月、平尾杉山神社が神奈川県内であった証明書をUP(写真最右)。 - 堅窂地神(けんろうぢしん) 元々は杉山神社入り口の鳥居左側にあったが、現在は本殿の脇に引き上げられている。正面に堅窂地神、側面に武州多摩平尾村、天保十巳亥年九月と刻まれた高さ70cm程の角柱石。
堅窂地神とは釈迦成道の際に地から現れた仏法守護神(十二天の梵天と対比される地天のこと)だが、農業振興の一環で大地の恩恵、作物の豊作を願って杉山神社に建立されたものと思われる。地神講が平尾にあった記録はない。町田市には多い石塔だが、稲城市内ではここが唯一の堅窂地神である。 - 宝泉寺(ほうせんじ) ※廃寺 真言宗陽谷山大日院宝泉寺は坂浜にある高勝寺の末。創建時期は不明。杉山神社の別当、祈願寺として建立されたが、平尾村の村人達は麻生区片平の曹洞宗夏蒐山修廣寺を菩提寺としており、無檀家であったため衰退、明治期の廃仏毀釈によって廃寺となった。
最後の住持であった梅房尼と智開尼の墓が、杉山神社並びの黒田家墓所(写真左の林奥)にある。また、戦没者慰霊碑の傍らにも石仏や石塔など、宝泉寺の寺名が刻まれた遺物が残っている(写真右)。
「私の地方史研究(黒田要著)」によると明治三十年頃まで杉山神社の女坂に草庵があったらしい。 - 姫宮神社(ひめみやじんじゃ) 祭神・創立年代共に不明。少なくとも江戸時代中期以前よりあるという古い祠。
祭神の名称であろう「姫宮」とは天皇家の内親王の別称のことであるが、詳細は不明。菊理媛神(白山比咩神)のような日本神話に登場する姫神や、古代信仰の名残である佐々原比咩命(伊豆国賀茂郡河津町)のような土着信仰の祠か?今後も研究が必要である。
※現在は近隣にある旧家の庭先へ移転されています。(2015/11) - 石井家住宅(いしいけじゅうたく) 天保十四年(1843年)十月築。大工は金程村の伊藤熊蔵、木引は古沢村の鈴木八十治郎。稲城市内では建築年代の明らかな玄関構えを持った唯一の遺構として、市行政が修復・管理している。
当時の村行政を仕切っていた名主・組頭・百姓代の村方三役家の自宅兼執務場所の様子がわかる。(玄関・式台・舞良戸など)
※整備要望を続けた結果、トイレ及び外柵が設置されました。今後のさらなる活用に期待です。(2015/11)
※一般団体初の貸出を実施することが出来ました。(2016/3) - 入定塚(にゅうじょうづか) 径約20m、高さ3.5mの円墳。室町時代末期の天文五年(1536年)丙申八月十五日に鎌倉の僧・長信法印八定上人が入定した塚。
入定とは弘法大師が晩年禅乗に入って遠い未来に弥勒仏がこの世に現れるまで待つという信仰に基づいて、僧侶が瞑想・読経しながら死に至り、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的とする修行のこと。 - 十三塚(じゅうさんづか) 築構年代、目的ともに不明だが、民間信仰の遺跡と見られる。都内で唯一の十三塚が都県(稲城・川崎市)境界の目印となっている。
貞享三年(1686年)に起こった平尾・古沢・片平村の秣場境界問題では、この十三塚を境とすることで決着した。当時の裁許絵図(馬場家文書)には供養塚として記載されている。 - 御座松塚(ござまつづか) 正慶二年(1333)五月、新田義貞との分倍河原合戦に敗れた鎌倉方の将士が敗走の最中この地で最期を遂げ、供養塚を作り松を植えたのが始まりという伝説が残る
。明治六年の大雪で松の大樹は650年に渡る天寿を全うし倒壊。昭和四十一年からの団地造成で塚自体も現在の場所に移されることとなった。
『稲城の昔ばなし改訂版』に『平尾の御座松塚』として逸話が掲載されている。 - 平尾原経塚(ひらおはらきょうづか) 江戸時代中期、宝永五年(1708年)に建立。日本国六十余州の霊場を行脚し、写経を納めた記念に造られた経典供養の塚。
元々は現在の位置ではなく、すぐ近くの農協平尾支店横にあったらしいが、平成四年に建物建設のため(隣の山王ビルか?)現在の場所に移されたという。 - 『平和の郷』石碑(へいわのさとせきひ) ふれんど平尾から東側に歩いた山中腹に、平尾土地区画整理事業の「平和の郷」碑が建立されている。
碑裏面には平尾の歴史を彷彿とさせる、地元諸氏の心の銘文が刻まれているので一読の価値あり。なお、揮毫は初代・稲城市長の森直兄氏。 - 木曽駒(きそこま) 天然記念物指定を受けた日本古来種の馬・木曽駒「花ちゃん」。出身は信州木曽谷で個体数が国内で50頭程度と、絶滅の危機にあるため繁殖地として平尾にやってきた、
と説明板(すばるさん設置)にある。
平尾の旧跡というわけではないが、かの木曽冠者源義仲の乗馬であったかと思えば、立派な歴史遺産といえるので掲載しました。場所は『特別養護老人ホーム ひらお苑』の坂下。 - 平尾馬場横穴古墳(ひらおばばよこあなこふん)
現在の平尾団地汚水処理場付近に三基あった。良好な状態の金環(耳飾りと思われる)が出土した。出土品は何故か武蔵野市に保管されているという。 - 黒沢天神社(くろさわてんじんしゃ)
徳川家康の関東御打ち入りがなされた天正十九年(1591年)から、江戸中期の寛延三年(1750年)まで平尾村の領主であった黒沢家。八幡太郎源義家が活躍したことで有名な前九年の役で滅ぼされた安倍貞任の叔父・良照の後裔と伝わる。その最後の当主となった黒沢杢之助が病弱を理由に家禄を没収され、平尾で余生を送り、死後に住まいがあった上平尾に祀られたものと云われる。
当社は何故か遠く東長沼の八坂神社に合祀されたと黒田氏の著書にあるのだが、現在の八坂神社を調べたところ結果は「黒沢天神」が見当たらなかった。(2018/11)
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小字・小地名
- ※順不同。上記地図の地名と照らし合わせてご利用ください。
※ページ内で地名を探す際には「Ctrl+F」ボタンで検索文字列に入力すると便利です。
※使用写真は全て2010年1月以降に個人で撮影したものです。 - 橋場(はしば)、橋戸(はしど)
麻生川支流であるジンカワ(陣川、神川)に橋が架かっていたところ。近くでは「はしばハイツ」というアパートも見かけた。 - 笹山(ささやま)
笹の生えた山、というくらいの意味であろうか。現在は何も生えてない。 - 下田(しもだ)、大下田(おおしもだ)
下平尾の田圃という意味。平尾八景のひとつ「下田の落雁」のあたり。 - 滝尻(たきじり)
元は切り立つ断崖で、滝が流れていたという。今も急斜面の面影がある。滝尻からやや下流部の現在の様子を見ると、都県境を小さな支流が流れ、麻生川へと落ち込む。 - 入ノ谷(いりのやと)
下谷奥に入り込んだ湿地という意味か。現在の下谷戸川は水量こそ少ないものの、暗渠化せずに並ぶ民家の裏側を流れている。 - 谷向(たにむかい)
現在の平尾谷戸通りにある旧名主宅前を流れる谷川を挟んだ反対側。本拠の向いということか。向山とも云われる。
写真は谷向の山を登る道(左)と、同地にある「平尾向山児童公園」(右)。 - 下ノ川(しものかわ)
平尾を流れていたジンカワ(陣川、神川)の下流部という意味か。平尾八景のひとつ「下ノ川の残照」がこの場所。現在の下ノ川近辺、麻生川を望む。 - 一町田(いっちょうだ)、田島(たじま)
長さ一町(109m)の広い水田があった。下記の鍛冶窪とほぼ同場所。田島はタ(水田)+シマ(川沿いの耕作地)で、田畑群だったということ。平尾文化通りを挟んで一町田、田島あたりを望む。 - 鍛冶窪(かじくぼ)
低湿地の水田だった場所。鍛冶屋があったわけではなく、河谷(かち)の窪地という意味らしいが、現在の山王橋児童公園あたりであろうか。ジンカワ(陣川・神川)が暗渠から顔を出しており、洪水時の貯水池的役割も果たす児童公園になっている。
山王橋という名前が付いているということは、昔には橋があった名残かと。 - 上ノ台(うえのだい)
平な山頂、段丘という意味。現在の『はなぶさ幼稚園』あたり。余談ですが、私・鈴木誠が卒園した幼稚園です。 - 山王前(さんのうまえ)
現在の台原バス停付近に大正時代まで山王権現分祀の日吉神社があった。この山王社は大正八年に杉山神社に合祀されている。社のマエ(南)だった場所。
同地は平尾団地の汚水処理施設があったが、写真撮影した2010年当時はひらお保育園の仮施設になっており、さらに現在はコーシャハイム平尾という高齢者向け住宅になっている。 - 山王(さんのう)
同上。日枝山王神社(千代田区永田町二丁目)から分祀した日吉神社があった場所。ちなみに、山王社の社殿は杉山神社に合祀される際に平尾下谷の稲荷社に曳かれている。
現在、当地には旧名を残すビルが建っている。右は下谷の稲荷社(山王社殿を継承)。 - 山王下(さんのうした)
上述2つ同様、日吉神社の山下だった場所。 - 地震谷(じしょういんやと)
自性院、地庄院とも。江戸時代中期の時点で地震谷と記録されている。自性院という寺が存在したが廃寺となったとか、関東大地震(1703年、大正期の関東大震災ではない)または江戸大地震(1678年)でこの場所が山崩れしたため、呼称をそのままに当て字したという説がある。なので、読み仮名は「じしんやと」ではなく「じしょういんやと」。
現在、当地はほぼ埋め立てられ、表通りには商店が、裏側には民家が立ち並ぶ。 - 台野(だいの)
山麓の傾斜地という意味。平尾八景のひとつ「台野の秋風」がこの場所。現在の中央通り沿い平尾自治会館や稲城市消防団第六分団詰所、ローソン、升屋酒店、むさし坊あたりか? - 姫宮(ひめみや)
姫宮社のある土地という意味。姫宮は天皇家の内親王の別称。少なくとも江戸時代中期以前よりあるという古い祠。詳細は当ページ序盤の名所旧跡解説を参照。
セブンイレブン平尾店やはなぶさ幼稚園裏手の小道を、天道山へ登って行く石段の右手に「姫宮」の祠があったが、現在は近隣旧家宅の庭先に移転している。 - 入定塚(にゅうじょうづか)
平尾宅地分譲住宅と川崎市の境目にある。室町時代末期に真言密教の僧・長信が入定した塚。入定とは僧侶が瞑想・読経しながら死に至り、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的とする修行のこと。平尾八景のひとつ「入定塚の暮雪」がこの場所。
写真左奥の土盛りが入定塚。柵があるため立ち入りは難しい。手前の柵には「すばる」さんのと、稲城市の説明掲示版が設置されている。また、同地近辺の高架線下は入定塚公園として整備されている。 - 日向(ひなた)
南斜面の丘で、畑だった場所。日当たりのよい場所という意味か。現在の平尾団地(分譲住宅)の51~58号棟あたり。今も花壇の日当たり良し。 - 久路田(くろだ)
久保田(くぼた)とも。小川の流れる水田であった。クロ(川べり、畔)の田という意味。平尾団地造成以前、旧平尾村の名主・黒田氏の本拠もここにあったことから、久路田=黒田で通じる気がする。(現在の黒田家は本家が無くなり、旧川の反対側に移動している)
平尾小学校側より久路田だったあたりの平尾団地1~6号棟を望む。 - 松葉(まつば)
北松葉、中松葉、南松葉と続く。現在の平尾団地中央部の大半を占める広域を松葉(マトバの訛り)と呼んでいたそうだ。団地内の平尾わかば幼稚園あたりに急坂の松葉坂があったらしい。春には写真の通り桜が満開となる。 - 南谷(みなみやと)
杉山神社の南にある谷戸という意味か。宝泉寺がこの場所にあったとも云われている。団地内は土手が造成されてしまっているが、その昔に谷だった場所と山だった名残の高低差をみることが出来る。 - 坪田(つぼた)
現在の文化通り沿い、ほとんどが暗渠化されているジンカワ(陣川・神川)が顔をのぞかせている、貯水池を兼ねた平尾児童公園のあたりか。川渕の窪みの小さな水田という意味。 - 番場台(ばんばだい)、馬場原(ばばはら)
平尾の地に古くより居を構える、番場氏や馬場氏の名字から名が付いたという説と、山の上の平坦地という意味の「ババ(バンバ)」であるという説がある。現在は平尾のメインストリートになっているが、少し旧道に入ると旧家の郷倉が見られる。
この番場「台」と馬場「原」という地名の名残で「台原」バス停となったそうな。 - 新地前(しんちまえ)
現在の稲城第三文化センターあたり。江戸時代以降、『新たに開かれた水田』の対岸という意味か。学童も併設された稲城第三文化センターは、平尾にある諸団体の活動拠点ともなっている。 - 長畑(ながばたけ)、坂口(さかぐち)
麻生区向原(旧・細山村)との境目に長細く続いていた畑。現在は読売CCとなっている。
平尾八景のひとつ「長畑の帰鴉」がこの場所。坂口は、長畑へ登る坂道の出入り口という意味。(長畑があった山方面を、第六分団火の見櫓から撮影) -
夫婦坂(めおとざか)
女夫坂とも。現在ある夫婦坂公園の場所ではなく、本来の坂は急坂の男坂と緩やかな女坂の対となっていたそうだが、現在は読売CC内となってるため確認ができない。 - 田ヶ谷(たがやと)、丹後堀(たんごほり)
タンゴはタガの訛り。田ヶ谷は水田のある谷という意味か。(田ケ谷があった方面を、第六分団火の見櫓から撮影) - 陣開田(じんかいだ)、陣開山(じんかいやま)
現在の「ふれんど平尾」(旧稲城第八小学校)の校庭が陣開田という水田であった。その後の山が陣開山。ジンカイダとは山腹に挟まれた小平地の水田という意味。(陣開田のあった「ふれんど平尾」の校庭。左奥が田ヶ谷で、右奥が陣開山。) - 後窪(うしろくぼ)
後(うしろ)は本拠や村の北側という意味。旧家裏の窪地といった意味か。現在は読売CC内となってるため確認ができない。 - 稲干場(いなほしば)
村共有の稲干し場があった場所。同地付近は長らくテニスコートとして仕様されてきたが、近年には住宅地化された。 - 天台(てんだい)
山の頂上、高い台地という意味。江戸中期頃まで領主の黒沢家の所有林があったため、地頭林とも呼ばれる。
写真の通り、旧家・鈴木家の裏山(天台あたり)には稲荷が祀られていたが、令和元年に庭先へ移築された。 - 庄田(しょうだ)
現在の天神通り東側にあった水田。清水(しょうず)の訛りか。現在は美しい景観の街並みへと変貌を遂げている。 - 後原(うしろっぱら)
後(うしろ)は本拠や村の北側という意味。旧家・粕谷家裏の原っぱといった意味か。 - 段木場(だんきば)
駄木場(だきば)とも。ダンは台地、キバは山間の小平地という意味。急坂を登る平尾内の高所である。平尾八景のひとつ「段木場の晩鐘」がこの場所。
上平尾土地区画整理事業が進み、新たに段木場公園が設置されている。 -
狢谷(むじなやと)
多摩地方ではタヌキのことをムジナと呼ぶ。タヌキの尻尾のように細長い谷という意味か。『稲城の昔ばなし改訂版』に『ムジナ小僧』として逸話が掲載されている。
谷戸の奥(現在の上平尾消防出張所裏手)には絶えず湧き水が出ており、写真の通り美しい棚田を潤していた。現在は上平尾土地区画整理事業により都市計画道路多3・4.17号線の道路として埋め立てられた。湧き水は『三反田湧水公園』に引かれ、憩いの場となっている。 -
丸山(まるやま)、天神社(てんじんしゃ)
昔は梨農家の「山芳園」さんの北川裏手に半球形の丸山(写真右)があり、山頂には天神(菅原道真)が祀られていたが、昭和42年に坂浜へ抜ける坂の工事用に埋め土として切り崩された。よって、この平尾坂浜間の道を「天神通り」と呼称するようになったらしい。(坂浜天満神社もあるので、そっちかもしれないが)
現在は本来の丸山があった場所と道を挟んだ反対側、三段田の奥に「丸山児童公園」がある(写真左)。 - 宝殿(ほうでん)、八幡前(はちまんまえ)
江戸時代頃までは八幡宮があったという。宝殿は宮の本殿があった場所か。八幡前は八幡宮のマエ(南)という意味。
写真は宝殿、八幡前の平成22年当時の様子。令和元年現在は、上平尾土地区画整理事業により住宅街となっている。 - 出口(でぐち)
農道が原町田道(現在の天神通り)に出るT字路のこと。より広い道に出るという意味。(出口近辺から天神通り・坂浜方面を見る) - 山井戸(やまいど)
イドは溝や水路を指す。山の水路という意味か。平尾村領主であった黒沢杢之助が家禄没収後の余生を過ごすためにここあたりに家を建て、村人が旧領主のために井戸を掘った場所という伝説もある。推定地とされる近辺には区画整理前まで井戸跡が残っていたが、江戸時代当時の名残かは定かではない。
現在は上平尾土地区画整理事業により、住宅街へと変貌している。 - 御座松(ござまつ)
大山道(相模道)の一里塚があった場所と伝わっている。現在の説明板がある斜面ではなく、団地造成前までは13号棟付近にあったらしい。かの有名な分倍河原の合戦で新田義貞に討たれた北条方の将兵を埋めた場所とも言われている。
平尾村・栗木村境の塚の上に直径1.5mの黒松があったが、明治中期にあった大雪で倒壊した。平尾八景のひとつ「御座松の時雨」がこの場所。『稲城の昔ばなし改訂版』に『平尾の御座松』として逸話が掲載されている。
現在の平尾から栗平へ抜ける切通しに「すばる」さんの説明板が設置されている。宅地造成で移動された場所であるため、当時の面影は見られない。
- 大向(おおむかい)
本拠地から見て「大いに遠い」「向かい(南)」の耕作地という意味。平尾団地の西側あたりが大向だった場所と思われる。
- 山田(やまだ)
その名の通り、山の中の田という意味。現在はアパートや駐車場などになっている。 - 寺谷津(てらやつ)、寺谷堀(てらやとぼり)
明治の廃仏毀釈まで平尾に存在した「真言宗 陽谷山 宝泉寺」所領の湿田と推測される。
写真左は平成22年に平尾外周通り側から寺谷津を撮影したもの。現在は上平尾土地区画整理事業の結果、写真右のように貯水池として整備されている。 - 新田(しんでん)
江戸時代に新たに開墾され、検地された水田という意味。写真は平成22年に新田付近の様子を撮影。当時も水田は無かった。現在は上平尾土地区画整理事業により、住宅やコミュニティーセンターとなっている。 -
焼境(やけざかい)、焼坂(やけざか)
特別養護老人ホーム正吉苑の西側あたり。昔、山火事が起こった時にこの場所で火が消えたとい伝承がある。実際にはヤケは作物が日焼けて枯れやすいこと、サカイは境目という意味と推測される。
平成22年当時の焼境あたりは広い野原であった(写真左)、特別養護老人ホーム正吉苑の外患(写真右)。 - →参考資料
- ※順不同。上記地図の地名と照らし合わせてご利用ください。