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※名所旧跡で現存する寺社は記号で表示しています。
※向陽台は百村・大丸・東長沼の旧三村から成り立っているため、大丸は青、東長沼は緑で表記します。
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妙見尊の「蛇より行事」 |
百村・向陽台
百村(もむら)は多摩川の支流である三沢川とその支流であった入谷戸、そして今は都道多摩尾根幹線道路になるため埋められた『竪谷戸』という大きな谷戸が中心となった地域である。
また、向陽台が多摩ニュータウン稲城第1住区として1988年より入居開始となったが、この地区は百村の北部と大丸村の南部、東長沼の飛び地を併せて新規に地区として成立した地域である。
百村という地名は、「モ(襞の多いスカート状を表す裳(モ))」+「ムラ(村、人の住む場所)という意味か、または「モ(裳)」+「ムロ(山に囲まれた小河谷の盆地)」という意味らしい。
どちらにせよ、三沢川や竪谷戸川に沿った山襞の多い盆地形から名付けられたものと思われる。
「百村」という漢字はモムラに対し江戸時代以降に当てられた佳字とのこと。
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名所旧跡解説
※掲載すべき、または抜けている名所旧跡がございましたら、ご連絡をいただけると幸いです。
※使用写真は全て2010年10月頃撮影のものです。
北辰妙見尊(ほくしんみょうけんそん)
創建年代は不詳。少なくとも江戸時代初期には確実に存在していたらしい。
東京都指定文化財の「蛇より行事」が行われることで有名。
その他にも、200年近く続く「百村星祭」、「神化祭」も執り行われる。
妙見信仰・北辰信仰の始めは星神信仰が道教と結びついたもので、北極星や北斗七星を祀る。
北辰信仰は関東では坂東八平氏(桓武平氏)の雄・秩父氏の秩父神社が主柱としている。
坂東八平氏では特に千葉氏の信仰が厚かったとされ、
坂本竜馬で有名な「北辰一刀流(千葉周作)」に受け継がれている。
この信仰は多摩川流域ではあまり多くないものなので、
秩父氏の一族である当地の鎌倉武士・稲毛氏が勧請したのではと私は推測している。
当地の稲毛一族は元久二年(1205年)に畠山重忠の乱で滅亡しているので、
ひょっとすると創建年代は平安末期~鎌倉時代初期まで遡れるかもしれない。
『稲城の昔ばなし改訂版』に『青龍にのってあらわれた妙見さま』として逸話が掲載されている。
妙見寺(みょうけんじ)
神王山観音院妙見寺。本尊は阿弥陀如来坐像。天台宗府中安養寺末で創建年不明。
妙見宮の別当であった修験者東光院が、延宝五年(1677年)に観音院に変わり、
宝永年中(1704~11年)に観音院を寺格に引き直して妙見寺と号したとされている。
妙見山に鎮座する妙見尊は同寺が別当寺となっており、昔の神仏混交の名残が見られる。
元々妙見信仰は比叡山寺門派三井寺(園城寺)に伝わる秘法なので、当寺も天台宗になったと推測する。
竪神社(たてじんじゃ)
百村(もむら)の村社。祭神は大雷神(おおいかづちのかみ)で雷神風神の雷さま。
宝暦十四年(1764年)建立(本殿礎石に「宝暦十四年願主松本権之丞建立」とある)。
往古、落雷がたびたびあったために神として祀ったことに始まると伝わる。元々は旧家・松本氏の氏神。
当時の集落から離れた山の上(竪台・松の台)に鎮座している。
稲城かるた(稲城市の郷土かるた)の銅板には、「雷神を 祀る氏神 竪神社」と詠まれていた。
撮影当日は例大祭の宵宮で、神輿の準備をされていました。
普寛教会(ふかんきょうかい)
明治時代初期に百村の松浦利平が木食普寛(もくじきふかん)と名乗る修験者として
諸国をまわって祈祷などしたのがこの「普寛教」の始めとされる。
その後、信州木曽の御嶽山で修行し、神習教の傘下にとして、百村に普寛講社を展開してた。
普寛講では、病気回復・悪疫退散・家内安全などの各種祈祷が行われている。
筆塚(ふでづか)
妙見尊境内にある。江戸時代後期に百村の名主・榎本家に生まれた書家の
百瀬雲元(ももせうんげん、本名・榎本冨之進)が文政六年(1823年)に
多くの門人たちの協力によってこの筆塚を建てたという。
碑文には、廃筆を埋めた旨が記されている。
赤坂地蔵(あかさかじぞう)
旧鶴川街道の赤坂にある。白山神社とは隣並び。
地蔵の形をしているが、刻文を読むと庚申塔であることがわかる。正徳二年(1712)の建立。
一番左の写真は赤坂地蔵から旧道を挟んで斜め向かいにあった別の石像。
白山神社(はくさんじんじゃ)
とても小さな祠。白道にあった白道神社を移転したとの伝説もあるが、
実際には石川県白山市の白山比咩神社を総本社とする白山信仰の小社か。
祭神は菊理媛神(白山比咩神)と推測される。
稲城市内では矢野口(白山神社)・大丸(大麻止乃豆乃神社末社)、
近隣では多摩市落合や川崎市麻生区白山にも白山神社がある。
百村館(もむらやかた)
竪神社付近に『百村館』があった可能性があると『武蔵の古城址(小幡晋氏著)』、
『日本城郭大系5埼玉・東京(新人物往来社)』に記載されている。
『新編武蔵風土記稿』では「竪谷戸・竪台」を「館谷・館台」と記し、中世武士・土豪の館址を思わせる。
竪谷戸同様、竪神社付近は向陽台地区として造成されてしまったためとなって城跡地形等は全くわからない。
三沢川沿いの麓にも『屋舗』の地名もあるので、いずれにせよこの百村地区には中世頃、
なにがしかの武士階級が存在していたのではないかと推測される。
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小地名解説
※順不同。上記地図の地名と照らし合わせてご利用ください。
※地名を探す際には「Ctrl+F」ボタンで検索文字列に入力すると便利です。
※使用写真は全て2010年10月頃撮影のものです。
大塚(おおつか)
新編武蔵国風土記稿には大塚という人工塚があったとの記述あり。
その塚がそのまま地名となったのであろう。現在の稲城第一中学校あたり。
ちなみに塚が何に由来する物なのかは資料が見当たらない。
中学校となった今では塚の面影は見られない。
関下(せきした)
竪谷戸川が三沢川に合流していたあたり。
川関(堰)でもあったのだろうか。
都道尾根幹線道路が鶴川街道にぶつかるあたり。
橋場(はしば)
三沢川の神王橋北西あたり。橋のある場所という意味。
神王橋から撮影。
白道(はくどう)
六万台と三沢川に挟まれた場所。白道神社があった由来の地名と言われている。
この白道神社は現在の白山神社と伝わるが、名称も違うので信憑性に乏しい。
はハケ(崖)下の水田(ダ)の訛りではないかと。
付近には保健センターや、第四分団の詰め所がある。
右に「百村白道ちびっこ広場」の写真を追加(2011/10/22)
六万台(ろくまんだい)
六間台(ろくまだい)とも。三沢川北岸の広い台地。
ロ(峡谷)+クマ(曲がった)+ノ+ダイ(台地)で、曲がった谷上にある台地ということ。
六万畳、六万坪の広い台地、という意味もあるのだろうか。
妙見台より六間台を撮影(左)、六間台の花壇にあった看板。
木詰(きづめ)
キリヅメとも。稲城第一中学校の西側一帯。
キ(基礎・土台、山麓)+ツメ(隅っこ)なので山麓の隅ということか。
現在では真新しい戸建て住宅街となっている。
孫六谷(まごろくやと)
マ(狭間)+ゴロ(礫地)+ク(崩れ)の谷戸という意味らしい。
梨・ぶどう畑から山上へと住宅が続く。
膳棚(ぜんだな)
ゼン(ゼニの訛り、狭い場所)の棚地という意味。
竪谷戸大橋下の武蔵野貨物線トンネル付近。
小塙(こばなわ)
小波奈和、小鼻、小花。谷戸状の地形なので小塙谷戸とも。
以前は水車小屋もあったらしい。竪谷戸川の支流。
コバ(焼畑、山間の小平地)+ナワ(土地)なので、焼畑をしていた土地か。
向陽台一丁目交差点付近の様子。
長者久保(ちょうじゃくぼ)
長者は裕福な人。裕福な人が住む、または所有していた窪地か。
今は埋め立てられて稲城第五中学校になっている。
撮影時は土曜であったが部活の掛け声が響いていた。
谷渕(たにぶち)
谷のフチ(崖や縁のこと)という意味。
街路樹の多い、閑静な住宅街となっている。
小掘込(こほりこめ)
竪谷戸川の支流。古い地形図を見ると谷戸になっているので、山襞に掘り込んだ小谷戸か。
現在の向陽台保育園近辺が比定地。
こちらも同様、埋め立てられているので谷戸の雰囲気はない。
古坂下(ふるざかした)
その名の通り、古くからある坂道の下の耕作地という意味。
現在、向陽台の駐在所・郵便局があるあたりが古坂下か。
古地図を見ると、ここあたりには古道が通っていたようだ。
大平(おおっぴら)
大きいピラ(崖)の場所という意味。向陽台小学校あたり。
校庭では少年野球チームが練習をしていた。
釜段(かまだん)
カマ(滝や、山の渕)+ダン(台地)という意味。
古老の話では炭焼きの窯段があったからということである。
埋め立てられて、現在は稲城第二公園の野球場となっている。
松尾台(まつのだい、まつんだい)
マツは松ではなくマト(小平地)。小平地のある台地か。
または、マツチ(真土)の台地か。
松の台通り、松の台農園など地名の名残を多く残している。
馬坂(うまざか)
竪神社近辺にあった坂の名前。竪谷戸から松尾台・竪台に上る坂であろう。
文字通り、馬が登れる坂という意味。
大笹り谷戸(おおささりやと)
大笹里(おおささり)とも。オオササは大刺さりで、大きく山が刺さった地形の谷戸ということ。
北側には東長沼飛び地の『大笹れ』が続いている。
今は多摩カントリークラブの内側となっている。竪谷戸川の支流。
この谷戸奥は、東長沼飛び地の「大笹れ」になる。
石荒谷戸(いしわらやと)
竪谷戸川上流部の谷戸。イシワラ(石原)は小石混じりの広い原という意味。
こちらも多摩CC内だが、くじら橋より遠望できる。竪谷戸川の支流。
坂浜境であり、この奥は長峰となる。
出口(でぐち)、トバ(当て字無し)
出口は小さい道から大きい道へと出る場所のこと。
トバは「苫」の訛りで、谷の入り口という意味。
ここら辺は入谷戸の馬入れ道と鶴川街道の交差路なので、こういう地名が付いたか。
右側の小道が鎌倉街道へ出てくる場所。近くには「神化(じんが)公園」がある。
当地の真上にある、妙見尊の神化祭に関係した場所なのだろうか。
九日田(くんちでん)
九日伝とも。陰暦九月九日(五節句の重陽、別名:菊の節句)に氏神を祀った水田か。
またはクネチ(山の麓)の水田か。
三沢川が分水する手前あたりの風景。
西谷戸(にしやと)
そのまま、西にある谷という意味。
三沢川から西谷戸を見上げる。
中ノ谷戸(なかねやと)
東の入谷戸と、西の西谷戸の間にある谷戸ということか。
この谷戸を上がり切ったところに妙見尊、妙見寺がある。
清田谷戸(せえだやと)
坂浜の薄葉谷との境。水田の谷戸であったが、現在は畑となっている。
サエ(狭い山頂の谷間)の谷戸ということだろうか。
谷戸山麓の入り口(左)。谷戸全景を松尾台から撮影(右)。
清水坂(しみずざか)
『稲城の地名と旧道』には坂浜の清水谷戸へ下りる坂道のこととある。
だが、隣は坂浜の薄葉谷戸であり、清水谷戸はもう一山向こうなので、
清水は湧水のことで、湧水がある坂ということかもしれない。
坂があった近辺の斜面にあった畑。左下に下りれば薄葉谷戸に至る。
小井戸(こいど)、石無坂(いしなざか)
コイドはコ(小さな)+エド(川に沿った山への入り口)という訛り。
イシナザカはイシ(石、岩、砂)+ノ+坂という意味だろうが、「石無し」という当て字だから、砂の坂か?
ケモノ道のような細道が続くが、自転車だったため断念。
大道(だいどう)
入谷戸の奥部。大道とは道の分類の一つで、幅が7~9尺(2.1~2.7m)の大きな道のこと。
現在も南山山中には多数の山道が通っている。
山中の分岐路、左は東長沼へ、右は坂浜へと続く。
篭谷(ろうやと)
老谷、牢谷とも。ロウ(谷間)という意味だろう。他にも、牢屋があったとか、
中世の時代に合戦で戦死した浪人を焼いたとの俗説もあるがどれも信憑性はない。
入谷戸の奥から南山に入って登った右手に広がる谷戸。
現在でも広い面積で野菜や根菜、栗、柿などが栽培されていた。
入谷戸(いりやと)
山寄りに入り込んだ谷戸という意味。入谷戸川が流れていた。
現在でいう鶴川街道から京王相模原線稲城駅前の坂を奥へ入って行く道筋、
それに沿って走る武蔵野貨物線の線路が谷の比定地。
稲城駅前通りと並行してる坂道が入谷戸の通り、緩やかに登り道が続く。
古房谷戸(ふるぼうやと)
昭和二十年頃までは古房池という貯水池があったらしい。現在も清水が湧き出している谷。
古い+ボウ(小平地)という意味。現在の武蔵野貨物線から妙見台に入り込んだ谷。
手前は武蔵野貨物線の壁。藪に覆われた谷戸には湧き水が流れていた。
毛呂(もろ)
毛呂口、諸口(もろくち)とも。
モロ(ムロの訛りで小さな盆地)の入り口ということか。
近辺の様子。この奥は元・南山スポーツ広場で、現在は開発工事中。
宮ノ前(みやのまえ)
前田とも。宮(妙見尊)の前にあった耕作地ということ。
宮ノ台(みやのだい)、妙見台(みょうけんだい)
妙見寺、妙見尊のある台山という意味。寺社の詳細は名所旧跡解説を参照。
松尾台より、宮ノ台(妙見台)を望む。
山下(やました)
竪谷戸に入るところの山の下で、昔は水田があったらしい。
意味はそのまま、山の下ということ。
今は竪谷戸大橋の下、武蔵野貨物線のトンネルとなっているが、
尾根幹線道路ができるまでは谷であったことがかなりの高低差でうかがわれる。
漆原(うるしばら)
文字通り読むと、漆の生えた原という意味。
伝説では鎌倉幕府の重臣・稲毛三郎重成の家臣「漆原三郎」という武士が土着し、
その苗字を地名にしたと云われている。
現在でも数件の旧家が立ち並ぶ。いずれかの家が漆原さんであろうか?
屋舗(やしき)
周囲には屋舗前、屋舗添の地名も。
ヤシキは中世の地名で、裕福な家や名主の居館を意味する。
屋舗前・鶴川街道あたり。旧道を登ると賽の神?の祠があった。
赤坂(あかさか)
旧鶴川街道にあった急坂「赤坂」。
アカは尾根や崖といった意味なので、急峻な坂といった意味か。
赤坂を登った右手には「白山神社」と「赤坂地蔵」が並んでいる。
また、さらに登った左側の民家に食い込んで、石像が安置されていた。
本堂(ほんどう)、本堂前(ほんどうまえ)
明治十二年、百村出身の松浦利平が木食普寛(もくじきふかん)という修験者になり、
木曽御嶽山で修行の後に百村へ戻って普寛講社を設立。その本堂がある場所。
そのマエ(南側)を本堂前と呼ぶようになったという俗説が残っている。
もしくは薬師堂がある場所という意味か?地形的にはホド(河谷)の訛りという可能性も。
普寛教会(左)、その前に広がる畑(右)。
竪谷戸(たてやと)、竪台(たてのだい)
タテは館・舘のことで、その昔、当地に百村館という中世武士の居館があったためという説や、
タテは屯田(トンデン)の名残であり、奈良時代の屯田兵集落であったという説もある。
※上記の通り、タテは武士を遠くへ移住させて農業をさせた所という語意もあるらしい。
地形由来ではタテ(深い崖)の台地という意味であると思われる。竪の谷戸と台地ということ。
現在、この竪谷戸は埋め立てられ、松の台・竪台と同じ高さになり都道多摩尾根幹線道路になっている。
竪谷戸はその支流含めほぼ全てが『都道尾根幹線道路』として埋め立てられている。
よって、付近にあった谷戸風景の面影はまったくない。
交差点『竪谷戸大橋』や、奥にある竪神社にその地名が残っている程度。
一番左の写真は妙見台より竪台を撮影したもの。
栗坪(くりつぼ)
竪谷戸川の支流。クリ(岩礁、棟型の尾根)+ツボ(渕、窪み)という意味。
ここも埋め立てられているが、栗坪近辺は「ときの広場」という公園になっている。
栗坪谷(くりつぼやと)
窪ノ谷(くぼのやと)とも。窪ノ谷が訛っての栗坪谷か?
すぐ北側の栗坪から連なる谷ということであろう。
上記の「ときの広場」から延びる道が谷戸の跡か。
★東長沼飛び地分★ 地図内の緑点線枠内。
※『東長沼』も参照のこと。
ヲンガ久保(をんがくぼ)
奥ヶ窪とも。江戸時代中期に長沼村(現在の東長沼)の人が開墾した飛び地。
その東端部分である「ヲンガ久保」が現在の向陽台に編入されている。
地名の意味は奥の窪地ということ。
ビュープラザ向陽台、リベレ向陽台~三和稲城店にかけての東西。
城山公園南端の池からスーパー三和方面を撮影。
★旧・大丸村分★ 地図内の青点線以北。
※『大丸』も参照のこと。
常連寺(じょうれんじ)
現在の「ビュープラザ向陽台」裏手あたりの斜面が比定地か。
山の反対麓にあたる窪地(現米軍施設内)に常連寺という寺があったと云われている。
奥のマンション裏手の山斜面が常連寺と推測される。
狸山(むじなやま)
狢山とも書く。標高は最高点で135m余り。現在の城山公園(稲城第一公園)の山のこと。
近くの坂下(大丸側)には狸窪という名前もあり、狸(この地方では狸を狢と呼んでいた)が多く居たか。
ちなみに、城山公園は本当は城山ではなく、向陽台から南多摩駅へ坂を下る右手側が城山であった。
なんと一の丸~十の丸まであるという城山公園。
城跡でもないけども、城っぽい名前を付けてみたのだろうか。
しかし、公園としては非常に野趣と整備が調和した素晴らしいものである。
大谷(おおやと)
稲城市中央図書館、生涯学習センターとその前面道路あたり。
文字通り、大きい谷という意味。
稲城市中央図書館、生涯学習センター(左)。
谷戸奥にあたる城山公園の『八の丸』には清水が湧いている(右)。
和哥蔵(わかんぞう)
ワカン(綰ぬ、ワガヌの訛り)は大きく曲がった輪、ゾウ(ゾレの訛り)は崖崩れという意味で、
大きく湾曲した山、谷といったことだろうか。今の「アルボの丘」から「季乃彩」に下るあたり。
陸橋から季乃彩方面を望む。右手の山と谷が和哥蔵あたりか。
谷山(やとやま)
文字通り、谷のある山という意味。
アルボの丘三番街の東側から撮影した谷山。
孫六谷(まごろくやと)
マ(狭間)+ゴロ(礫地)+ク(崩れ)の谷戸という意味だろうとされる。
または現地が扇状地を成しているので、ロクはロウ(扇状地)の訛りか?
正対した南の百村側にも同名の地名あり。
アルボの丘裏手より、大丸神社へ下りる近道が孫六谷。
右の写真は麓側から撮影した谷に沿った住宅街。
打越(おっこし) 上・中・下
山稜に尾根道が続いていた場所。
打越とは「尾根(山)を大きく越す」という意味。丘陵地の古道添いによく見られる地名。
打越と呼ばれた場所は、今の多摩ニュータウン向陽台六丁目団地あたり。
天神山(てんじんやま)
菅原道真を祀る祠でもあった山であろうか。詳細不明。
現在の城山小学校辺り。山下に「天神下」の地名あり。
標高が高いため、付近には給水塔も建っている。
城山小学校(左)。山麓より天神山の給水塔を見上げる(右)。
御岳山(みたけさん)
大丸側の山の麓には御岳堂があった。
山岳信仰の御岳(青梅の御嶽神社が有名)に擬えられた山だったという。
今のビスタセーレ向陽台あたりが御岳山(左)。麓より御岳~天神山の山稜を望む(右)。
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