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※名所旧跡で現存する寺社は記号で表示しています。
※東長沼は向陽台含む一部飛び地があるため、小地名欄の下部に別地図を記載しています。

青渭神社の参道
東長沼

東長沼(ひがしながぬま)は江戸時代まで『多摩郡長沼村』であったが、明治時代に神奈川県南多摩郡に編入された際、同郡内の長沼村(現八王子市)と混同しないため「東にある長沼村」と改称した。

長沼という地名の由来は、青渭神社境内にあったと伝わる「細長い青く澄んだ沼」がその語源であると云われている。この青渭神社すぐ西側(大丸の東端)には加多(潟)などの地名も残り、ここが古多摩川の流路であり、それが流路変更によって川跡に沼(三日月湖)が形成されたのではないかと推測される。
他にも『長沼二郎大夫という武将が城山(亀山)に住んでいたから』という説もあるが、中世当時の武蔵武士の苗字成立を考えると、長沼の地名をとって長沼氏の名としたのが正しいと思われる。

三沢川を境に北は平野、南は丘陵という地勢で、繁華街はすべて平野部に集中している。
JR南武線・京王相模原線の駅がそれぞれあり、鶴川街道・川崎街道の主要道が通り、市役所や消防署などが集中する『稲城市の中心地』である反面、今も多くの梨農家が残っている街である。


名所旧跡解説

※掲載すべき、または抜けている名所旧跡がございましたら、ご連絡をいただけると幸いです。
※使用写真は全て2010年10月頃撮影のものです。

青渭神社(あおいじんじゃ)
   
伝承では弘仁年間(810~ 824年)の創建。延喜式神名帳所載の多摩八座の一社。
祭神は青渭神(あおぬまのかみ)、猿田彦命、天鈿女命の三柱。『東長沼』の項で述べている通り、この地は多摩川の氾濫原として、長い沼地があった。その為、当社は大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。水に関わりが深い土地であり、主祭神である青渭神とは水神であろうと思われる。
式内・青渭神社の論社は稲城市東長沼・調布市深大寺・青梅市沢井の三社がある。当社を採用しているのは『特撰神名牒』『地名辞書』『風土記稿』がある。

常楽寺(じょうらくじ)
   
天台宗 樹光山浄土院常楽寺。本尊は阿弥陀、観音、勢至の阿弥陀三尊。
天平宝字年間(757~765年)にかの行基上人が開山といわれているが、行基自身は天平二十一年(749)に入滅していることから、伝説的と思われる。はっきりしたところでは永禄元年1558に比叡山の良順が再興したとされる。秀逸な出来栄えの閻魔像があることでも有名。
『稲城の昔ばなし改訂版』に『茶臼山の白龍池』として逸話が掲載されている。

報恩寺(ほうおんじ) ※廃寺
 
黄檗宗 黄檗山萬福寺の末。創建は安永二年(1773年)。本尊は千手観音。
明治期の廃仏毀釈により廃寺となった。
当寺の遺跡としては、常楽寺境内にある「不許葷酒入山門」(宗教儀礼上の理由で、ニンニクやネギなどの臭い、酒を禁止するもの)の石塔である。本来は禅宗(黄檗宗は臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一派)寺院の山門前に設置されるものであり、天台宗の常楽寺にはあるはずのないものである。石塔側面には『武州多摩郡長沼村大亀山光明禅院』の文字が刻まれる。
また三沢川沿いには『長沼城・報恩寺跡地』の石碑が建っている。

奚疑塾(けいぎじゅく)
  
旧鶴川街道沿いにある八坂神社の傍に奚疑塾の石碑が建っている。
塾の創始者・窪全亮は弘化二年(1847年)大丸村生まれ。幼少期より神童の名高く、名門上野寛永寺にて学を修め、稲城へ帰郷し明治十三年に奚疑塾を設立。
素堂と名乗った全亮は多摩随一の漢学者として多摩全域はもとより、川崎、遠くは埼玉からまで塾生が詰めかける盛況であったという。当塾の卒業生は慶応義塾へ無試験入学でき、帝国大学(現東京大学)にも多数進学者を出したという。
なお奚疑とは漢学で五柳先生として有名な陶淵明の「帰去来辞」の最後の一文「樂夫天命復奚疑」から取られている。この漢文の意味は「自然に身を任せて生きることは何も疑いことがない楽しい人生である。」というもの。全亮という名前も陶淵明の字名「元亮」から取ったのではと想像がふくらむ。

上新田 津島神社(かみしんでん つしまじんじゃ)
   
尾張津島神社(愛知県津島市神明町)を分霊したものであり、上新田地区の鎮守。
祭神は素戔嗚尊と倉稲魂命。創立年代不詳だが、元禄十四年(1701年)の棟札が発見されている。
江戸時代には牛頭天王社と呼ばれ、明治期の神仏分離で八坂神社と改称、その後に本社の津島神社改称に伴い、現在の津島神社という呼称に落ち着いたという話だ。また、古くより吉立氏の屋敷神であったお稲荷様も祀られており、稲荷社としての記録も残る。

下新田 津島神社(しもしんでん つしまじんじゃ)
  
上記の上新田津島社と同じく、尾張津島神社の分祠。こちらも創立年代は不詳。祭神は素戔嗚尊。
上新田同様、江戸時代末期には天王社、明治期には八坂神社と称していたらしい。
清冽な用水堀沿いに佇む神社は、非常に趣きのある風景を醸し出していた。

八坂神社(やさかじんじゃ)
 

旧鶴川街道沿い、奚疑塾石碑の小道を挟んだ向かい。主祭神は素戔男尊。
宝永五年(1708年)の棟札あり。樫の大木の根元に村の守護として建立されたと伝えられる。
八坂神社には牛頭天王、秋葉権現を併せ三社が祀られているのだが、秋葉権現は仏教信仰であるのに明治期の廃仏毀釈を何故か免れていることは注目に値する。
明治四年に平尾の黒沢天神(旧平尾村の地頭・黒沢杢之助)が合祀されたと伝わる(黒田要氏の説)が、末社が見当たらないのは何故だろうか。

多度神社(たどじんじゃ)
 
天明四年(1784年)に鎮座と案内板にある。主祭神は多度神(アマツネヒコのことか?)。
当地の多摩川堤防守護のために建立されたと伝わる。
他、祭神も一致することから三重県桑名市の多度大社を勧請したものと思われる。

多摩川梨発祥地(たまがわなしはっしょうち)
  
梨農家「清玉園」さんの前庭に「多摩川梨発祥之地」と自然石に刻まれた碑がある。
稲城の代表的特産物である梨は江戸時代の元禄年間(1688~1703年)に当地の代官であった増岡平右衛門と川島家の佐次右衛門が山城国(現在の京都府)より『淡雪』という種類の梨苗を持ちかえったのが始まりという。また、邸宅の門前には『稲城梨唄』の石碑も建てられている。
今回は川島家のお母様の御厚意により庭内を撮影させていただきました。

身代わり地蔵(みがわりじぞう)、欄干橋(らんかんばし)・馬橋(うまはし)
  
三沢川に架かる「らんかん橋」「馬橋」と、橋たもとにある地蔵祠。
身代わり地蔵は、明和元年(1764)に作られたもので、よく頭が落ちることから事故にあう人の身代わりになっていると云い慣らされ、この名になったと伝わる。
「らんかん橋」は三沢川を常楽寺へ渡る橋のためか、大正期まで不浄な動物を渡らせない慣習があったという。隣に架かる「馬橋」は、らんかん橋を渡れなかった馬がこちらの橋を渡ったという言い伝えがある。

雁追橋(がんおいばし)
 
江戸時代、この近くに大変美しい御殿女中(幕府の大奥務めか?)が住んでいたらしい。周辺の多くの男性から言い寄られていたが誰も相手にされなかったことから、『雁のように男が集まって来るが、追い返されてしまう』とのことで、雁追い婆さんのアダ名をつけられてしまったようだ。その名からこの橋の名前が付いたとのこと。
『稲城の昔ばなし改訂版』に『雁追橋』として逸話が掲載されている。

葎草橋(りっそうばし)
  
東長沼と押立の境の大丸用水に架かる橋。
天保九年(1838年)に長沼村・押立村が協力して、板橋を石橋に架け替えたという石碑がある。
『渠田川や 多摩の葎の橋はしら 動かぬ御代の 石と成蘭』という歌が刻まれており、
その他にも各方面への道標としての役割も果たしていたようだ。

石塔群(せきとうぐん)

稲城長沼駅から線路沿いにやや矢野口寄りに行った三叉路にある。江戸時代の道標を中心に、秋葉権現(常夜塔)、石橋供養塔、馬頭観世音、庚申塔の石塔類が集められている。

長沼城(ながぬまじょう)
 
鎌倉時代から室町初期頃の土豪で、武蔵七党の一つ西党日奉氏の流れを汲む武蔵武士・長沼氏の居城と考えられており、『長沼二郎大夫』の名も見える。
常楽寺西一帯にあった独立状の小丘陵(亀山)が城址であったとされるが、現在は宅地化され城山は消滅しており、駅下の三沢川沿いに城址碑が、駅直上を通過する橋脚に「城址(じょうし)橋」と名を残すのみとなっている。

小地名解説

※順不同。上記地図の地名と照らし合わせてご利用ください。
※地名を探す際には「Ctrl+F」ボタンで検索文字列に入力すると便利です。
※使用写真は全て2010年11月頃撮影のものです。


玉川前(たまがわまえ)
多度神社、稲荷神社があるあたりだったと云われる。
タマガワ(多摩川)の前(すぐ前か、もしくは南)という意味だろう。
 
稲城北緑地公園の駐車場を出て直進の道にある稲荷神社(左)。
公園(川)沿いの通りの多度神社(右)。

水門下(すいもんした)
この地を流れる用水堀の水門があったのであろう。
なので、水門の下手側という意味と思われる。

稲荷神社と多度神社脇を流れる当地の用水堀。

柳島(やなぎしま?)
多摩川の中島の一つに付けられた名前だろうか。
目印となるような柳の木でも生えていたので、柳島となったか。

スケートボードやインラインスケートといったエクストリーム系スポーツ
専用の公園施設が出来上がっていた。

池ノ東、池ノ西、池ノ南、池ノ北(いけの-ひがし・にし・みなみ・きた)
旧多摩川跡に出来た池か沼があったと云われている。
その池の東西南北の各方面に付けられた地名と考えられる。
 
池ノ南には稲城市立第四文化センターがある。

大丸境(おおまるざかい)
文字通り、西隣の大丸村との境界地という意味。
 
菅掘の流れが大丸との境、雁追橋がある。近辺は入り組んだ住宅街であった。

上新田(かみしんでん)
多摩川の氾濫原であった場所を、江戸時代中期に開墾し新田とした。
ここから東南東へかけて中新田、下新田と続く。津島神社がある。

住宅街に忽然と現れる上新田津島社の鳥居。

中新田(なかしんでん)
前述の上新田と同様、江戸時代中期に新田開発された場所。
上新田と下新田の間にあるから中新田か。

下新田(しもしんでん)
前述の上新田・中新田と同様、江戸時代に開墾された新田。
上新田と同じく、こちらにも津島神社がある。
  
下新田津島社の付近の様子(左)、南武線高架横の水田(中)、交差点に残る地名(右)。

中島(なかじま)
稲城長沼駅の東北あたり。旧多摩川の中島があったと推測される。
多摩川沿いにはこのような地名が多く、南武線の『中野島』も同様の由来であると考えられる。

現在は駅近辺の再開発をしているのか、広く綺麗な道路となっている。

川久保(かわくぼ)
カワ(旧多摩川)+クボ(窪地)で、旧多摩川跡の窪地という意味か。
こういった窪地に水が残ったのが沼あるいは池となったのであろう。

菅掘の川幅が広がり、この先の『喧嘩口』分水で北掘に分かれる。

池淵(いけぶち)
かつてこの近辺に「白地池」があったとのこと。これも旧多摩川跡にできた池だろう。
イケ(池)の渕(縁)という意味。

ヲハル渕(をはるぶち)
下新田の津島神社脇を流れる菅掘近辺の地名。
オハルさんの住む渕ではなく、御墾り(幕命で開墾すること)の渕という意味であろう。

ヲハル渕近辺の様子。堀のすぐ傍に畑が広がっていた。

光西島(こおせっちま)
この島も前述の中島同様、旧多摩川の中州の島であったという。
「拵えた(こさえた)」島だからコサエッチマという説と、コセ(作物が生育し難い)+シマ(島)という説がある。

今では畑やマンションなどが混在する、緑の住宅地となっている。

法雪(ほおせつ)
光西(こおせつ)とも云われているところを見ると、前述の光西島に繋がる地名であろう。
旧川崎街道の長沼村東端部分にあたる。

旧川崎街道沿いには蔵を持つ旧家が立ち並んでいる。

河原方(かわらがた)
旧多摩川の川原であった場所なので、この名になったものであろう。
隣村の大丸にも同様の理由で付けられた地名がある。

新川端(しんかばた)
菅掘沿いの土地。新しく掘った用水堀の川の端(ほとり)ということであろう。

菅掘に泳ぐ鴨のつがい。

青沼後(あおぬまうしろ)
現在の稲城長沼駅の南あたり。青渭神社の北にあたる場所。
青渭神社にあったと伝わる青沼の北側(ウシロ)の土地という意味。

稲城長沼駅は現在改装中か?仮の駅舎のようであった。

御沼(おぬま)
青沼とも。青渭神社や長沼村の地名由来ともなった旧多摩川跡に出来た『長い青く澄んだ沼』があった場所という。
江戸時代には水田となっており、現在は川崎街道沿いの繁華街となっている。

この角にある和菓子の青木屋、どらやきが絶品。

青沼出口(あおぬまでぐち)
デグチは小さな道が大道に出る場所や、何かから広いところへ出る場所に着く地名。
かつては広い境内を持っていた青渭神社から旧大山街道(大山参詣の道)へ出る場所だったということか。

久保(くぼう)
公方とも書くらしいが、これはクボ(窪)の訛りであり、窪地という意味。

確かに畑地が道路より低いが、これが窪地の名残かは定かでない。

柳田(やなぎだ)
目印となるような柳の木が生えた水田ということか。

現在は住宅や工場地となっている。

池田(いけだ)
池田耕地とも。現在は昭和初期の工事により盛土されているが、昔は窪地の水田であり、大水が出ると池になるような田であったとのこと。

釜池(かまいけ)
現在の吉方公園の北あたり。ここに大正時代まで池があったが、昭和頃には水田となっていたらしい。
半球形の釜底型をした池だったのだろう。

当地には釜池公園が設置されており、池であった面影はない。

吉方(きっぽう)
切方とも。現在の吉方公園あたり。方が方向なのか潟なのかで意味が大きく変わるであろうが、残念ながら語意不詳。何かしらの意味を持った言葉を佳字に置き換えたものであろう。
隣接する矢野口側にも吉方の地名が繋がっている。
 
広々とした吉方公園や吉方橋などがあり、吉方通りなるものもあるらしい。

幸方(こおがた)
功方とも。現在の三沢川の幸方橋近辺。コオ(川の訛り)+ガタ(潟)で旧多摩川の氾濫原ということか。それに佳字が当てられたものと考えられる。
 
前述の吉方同様、やや小さいが幸方公園や幸方橋と、地名を冠した建造物がある。

下河原(しもがわら?)
旧多摩川の川原があったものだろうか。
長沼村内でもっとも旧多摩川の下流部(下手)にある河原ということだろう。

稲城第一小学校近辺が下河原と呼ばれた場所。

前村(まえむら)
「下新田の南側(マエ)にある村」という意味か。

現在は稲城大橋通りの裏通りとなっている前村の旧道を撮影。

青沼前(あおぬままえ)
青渭前(あおいまえ)とも。青渭神社の参道の前、またはマエ(南)の土地ということであろう。

青渭神社の表参道前の通り。

後村(うしろむら)
江戸時代初期からある村とのこと。この地域の南側には江戸時代に代官屋敷が設置されていたらしく、その北側(ウシロ)にある集落という意味であろう。

現在は新築と旧家が混在した住宅街になっている。

琥珀(こはく)
琥珀神社があるらしいので、その周辺も同じ地名となったものであろうか。
…しかしこの神社がどこを探しても見つからない。知っている方いましたら教えてください。
→地元・東長沼の郷土史家、進藤さんに御教示いただき琥珀神社を発見しました!2011/02/09
  
私有地内の奥にあるため、場所の公開ができません。ご了承くださいませ。

横町(よこまち)
東西に通る鶴川街道に対し、横(南北)に道を通して代官所へと繋げたと云われている。

ここも新築工事が多く行われており、町並みの変遷が覗われる。

番場(ばんば)
馬場とも。鶴川街道の北側で、室町時代より村が形成されていたという。
バンバはババの訛りで「広場」という意味だが、用水掘の水番小屋があったからとか、江戸元禄年間の代官・増岡平右衛門(当地に梨の種苗をもたらした人物の一人)の頃に当地に番所が設けられたからなど諸説あり。

番場あたりの旧街道路地か?軽自動車しか通れなさそうな道幅。

築田(つくだ)
文字通り「築いた水田」という意味。
領主の直轄田だったと云われており、この場所だとすぐ南の亀山にあった長沼城の城主・長沼氏が開墾した水田だったということであろうか。
中世開発領主、特に武蔵武士の土着発展を伺わせる。

旧鶴川街道と新道が分かれる現地はファミリーレストランに。

熊野堂(くまんどう)
水田の中に熊野様(熊野信仰)の小さな石祠があった場所。
石祠は、昭和中期の区画整理で地元の山本氏宅へ遷されている。
 
市役所入り口交差点あたりの様子(左)。遷された「おくまん様」の祠(右)。

関場(せきば)
こちらも室町時代からあった村とのこと。セキ(用水堀の水堰)があった場所ということであろう。
ここには放光院というお寺があったそうだが、現在は廃寺となっている。
 
梨の旭園さんあたりが比定地。淡雪公園という梨原種の名を冠した公園があった。

樋越(ひごえ)
用水堀の水門である「樋(とい)」を越えた場所という意味か。

向い耕地(むかいごうち)
旧三沢川のムカイ(南)にあったコウチ(河谷=河地=湿地、開墾され転じて耕地)という意味らしいが、現在は三沢川の流れが変わっているため、川の北側にあたる場所。現在の流路からだと、南の本郷耕地から見て川向うの耕地だったというようにもとれる。


堂跡(どおあと)
現在のJA東京みなみ稲城支店あたり。身代わり地蔵の祠がある。
何かの堂があったわけではなく、ドオ(弓型の地形)+アト(湿地)で三沢川が湾曲した湿地帯に当て字をしたものとある。

現在、三沢川北岸に並ぶJAや市役所などの建物は、旧三沢川の南岸にあたる場所。

矢立(やたて)
伝説では、老木の幹から鏃(やじり)が発見され「矢が立った場所」から発祥と云われている。ヤツ(ヤト、谷=湿地)+タテ(屯田、武士を遠くに土着させて農業をさせること)という意味とも書かれている。
中世武士・長沼氏と関連するのか、それとも後述の本郷村に土着したとされる武士の水田であろうか。

日産販売店が入るビルが建っているあたり。

八反田(はったんだ)
旧三沢川の南側(現在では北側にあたる)に8反の広さの水田があったということであろう。

三沢川沿いの住宅、駐車場となっている。

本郷(ほんごう)、本郷耕地(ほんごうごうち)
室町時代に信濃の国(長野県)から武士が移住して開墾し、村を作ったと伝わる場所。森・加藤姓の旧家が多く密集している。
本郷は本村という意味で、平安末期~鎌倉時代の郷村制の地名。ここが遅くとも鎌倉時代から集落を形成していたことが推測される。
  
市役所裏手にあたる当地はほぼ全てが梨農園となっている。本郷を冠する物が多数ある。

山下(やました)
本郷の南側、丘陵部に入る手前の場所。文字通り、山の下という意味。

京王相模原線の線路下は、稲城市自転車等保管場所になっていた。

城山(きざん)、亀山下(きざんした)
亀山、城山下とも。京王相模原線の稲城駅北側に小山があった。
現在は削平工事がなされ、坂となっている。
この小山は百村の入谷戸と三沢川の間の小丘陵で、亀山・城山と呼ばれていた。ここに長沼城があったと伝わり、亀山や城山というのは武士の城館になったことで当てられた佳字と考えられる。
その城址に報恩寺という寺が建立され、大亀山光明禅院を名乗った。
現在では廃寺となり、常楽寺内や太子堂に遺物を残すのみとなっている。
  
三沢川沿いに亀山橋や亀山下公園など、名残を残すものがある。右は亀山跡の遠景。

弁財天(べんざいてん)
かつて亀山(城山)の中腹に弁財天の祠があったという。
『稲城の昔ばなし改訂版』に『茶臼山の白龍池』として逸話が掲載されていることから、水に関わる信仰の土地だったのだろうか。

京王相模原線稲城駅の西側あたりの様子。

向山(むこうやま)
本郷の向こう(南)にある山という意味。現在の七曲公園上の台地あたりであろうか。

写真中央部が七曲公園。この上の台地が向山。

七曲(ななまがり)
急な山斜面を登るために七ヶ所の曲がり角を持った道があったという。
現在の七曲見晴らし公園西端の階段あたりに道があったのだろうか。
 
今では七曲がりの坂道は道路と急な階段となっており、
同地の傾斜地を利用した七曲見晴児童公園が設置されている。

福ヶ谷戸(ふくがやと)、福ヶ上(ふくがうえ)
オフクは「御吹く」で強風という意味なので、強い風が吹く谷ということか。
風の谷…?どこかで聞いたことがあるフレーズだ。
『稲城の昔ばなし改訂版』に『お福ヶ谷戸』として逸話が掲載されている。
福ヶ上は、上記からすると風が吹く上の台地という意味か。

本郷あたりから撮影。奥に見える山が福ヶ上か?
するとこの下あたりが福ヶ谷戸ということになる。

第六天(だいろくてん)
昭和初期頃まで、ここに第六天を祀る小祠があったと伝わる。
関場にあった放光院の所有であったという。
 
元々はスポーツ広場だが、現在は立ち入り禁止となっている。

板取窪(いたとりくぼ)
イタドリ(タデ科の多年生植物)が生い茂る窪地という意味か、
または名前の通り「板」の材料となる木を切り出した窪地ということか。
現在、南山開発区域となっており立ち入りができない。

どこが窪地であったかは定かではない。

日向(ひなた)
山の南斜面にあった畑の名前。日向とは日当たりが良いという意味。

付近は今も果樹畑などとして里山の景観を残す。

打越(おっこし)
打越とは「尾根(山)を大きく越す」という意味。丘陵地の古道添いによく見られる地名。

撮影当日、この場所で猛禽類(オオタカ?チョウゲンボウ?)を見ました。
速過ぎてシャッターが間に合いませんでしたが…

中原(なかっぱら)
ナカは山中という意味か。山中の平らで広い土地ということ。

今はよみうりカントリークラブのコースとなっている。

井戸久保(いどくぼ)
東隣の矢野口にも井戸久保の地名が見られる。井戸(湧水)のある窪地という意味であろう。
現在はよみうりCC地内となっている。

林道からゴルフコースへと傾斜し、窪地であることが明瞭。

馬老(ばろう)
東隣の矢野口にも馬老の地名が見られる。バロウはバロの訛りで、バロは荒れ地という意味。
前述同様、現在はよみうりCC地内となっており、細山村(現川崎市麻生区細山)との境である。

土橋(どばし)
湧水があり、小川が流れていて、そこに土橋が架かっていたという。
または地形が山腹の平地なので、トバ(平地、谷口)という意味であろうか。
前述同様、現在はよみうりCC地内となっている。

向畑(むこうばた)
ムコウ(南)の畑という意味。
前述同様、現在はよみうりCC地内となっている。

奥ヶ窪(おくがくぼ)
文字通り、奥の窪地ということ。
前述同様、現在はよみうりCC地内となっている。

ウスバ谷(うすばやと)
西隣、坂浜村の薄葉谷へ繋がる最上流部にあたる。
よって同地と同じ地名由来であろうと考えられる。
前述同様、現在はよみうりCC地内となっている。

大平(おおっぴら)
ヒラは傾斜地という意味で、大きい傾斜地ということか。
前述同様、現在はよみうりCC地内となっている。


★東長沼飛び地★ 地図内の緑点線枠内は向陽台部分。
※『百村・向陽台』も参照のこと。

この飛び地は江戸時代に「持添新田」と呼ばれており、
地元では西野、西山(長沼から見て西にあるため)と呼ばれる場所であった。
江戸時代の中期頃に長沼村人が開墾したと伝わる。
大半が隣接する百村や大丸の地名に繋がっているので、そちらも参照されたい。



ヲンガ久保(をんがくぼ)
  奥ヶ窪とも。江戸時代中期に長沼村(現在の東長沼)の人が開墾した飛び地。
  その東端部分である「ヲンガ久保」が現在の向陽台に編入されている。
  地名の意味は「奥の窪地」ということ。
  ビュープラザ向陽台、リベレ向陽台~三和稲城店にかけての東西。

城山公園南端の池からスーパー三和方面を撮影。

貉山(むじなやま)
  この北部に大丸村(現向陽台)に狸山(むじなやま)があり、その一部ということか。
  ムジナはタヌキの異称(この地方では狸を狢と呼んでいた)であり、タヌキが住む山といった意味。
  現在は米軍サービス施設内の一部となっている。

明神山(みょうじんやま)
  標高144m、明神山の南斜面にあった畑のこと。
  中世末期に盛んに建立された明神社がこの山にあったということであろうか。
  現在は多摩カントリークラブと米軍施設の境界になっている。

大笹れ(おおざされ)
  大笹里(おおささり)とも。オオササは大刺さりで、大きく山が刺さった地形ということ。
  南側には百村の『大笹り谷戸』が続いている。現在は多摩カントリークラブとなっている。

稲城中央公園クジラ橋より撮影。

古坂(ふるさか)
  現在の向陽台5丁目にかかる古道があり、その坂道だったということ。
  文字通り、古い(古道)の坂(坂道)ということ。向陽台に古坂下の地名も見られる。

梶ヶ上り(かじがのぼり)
  カジカ(鰍)+ノボリ(登る)で、まるで鰍が登るような急峻な地形という意味。
  カジカは河川を遡上するカサゴ目の魚で、麓の三沢川にも昭和二十年頃まで多く生息していたらしい。

石原谷戸(いしわらやと)
  百村の石荒谷戸に繋がる谷戸であったらしい。
  イシ(小石)+ハラ(平地)+ヤト(谷地)で、小石混じりの平らな谷ということか。
  現在は多摩カントリークラブの内部となっている。

稲城中央公園クジラ橋より撮影。

長芝(ながしば)
  長い芝地ではなく、長いセバ(狭間)という意味。
  この南東部には『捨て場山(すてばやま)』という耕作放棄された山があったという。
  現在は多摩カントリークラブの内部となっている。


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