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※名所旧跡で現存する寺社は記号で表示しています。
※向陽台の一部が大丸から成り立っているため、向陽台部分は青で表記、詳細は「百村・向陽台」を参照。

大麻止乃豆乃天神社境内
大丸

大丸(おおまる)とは「大きいマル・マト(丸・的の形をした平地)」という意味で、
古多摩川沿いのオオマト-ノ-ツ(「大麻止ノ津」または、「大真門の津」)という船着き場(津は港という意味)があったといい、現在でも大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんじゃ。)がある。また「丸・的」の名残か当神社は別名・丸宮明神社とも云い、円照寺など「マル」にまつわる寺社が残る。

当地は多摩川の船着き場、渡河点であるのみならず、古代官道の相模道や鎌倉街道上ノ道にも近い。さらには武蔵国古府中の対岸すぐということで、国分寺の瓦を生産した瓦ヶ谷戸もあり、古来よりとても重要な地域であったことがうかがわれる。

地域東部は川崎街道と府中街道の分岐点であり、街として発展しているが、西部一帯は市立病院・清掃工場・水処理センター・米軍施設・ゴルフ場となっており、開発が制限されるため緑が深い。
また地域中央南部は1988年頃より向陽台地区の一部となり、大丸から切り離されている。


名所旧跡解説

※掲載すべき、または抜けている名所旧跡がございましたら、ご連絡をいただけると幸いです。
※使用写真は全て2010年9~10月頃撮影のものです。


大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)
  
社格は郷社。櫛真智命(くしまちのみこと)を祭神とする。別名・丸宮明神。
『新編武蔵風土記稿』の丸宮社の條に、「丸山明神と號す。」とあり
境内には、秋葉・稲荷・神明・白山・牛頭天王などの境内社。
拝殿後方の覆殿の中に本殿があり、凝った彫刻が施されている。
延喜式大和國十市郡の天香山坐櫛眞命神社(天香山神社・國常立神社)の項に
元名大麻等乃知神とあることから、当社も同じ祭神であるとされている。
この神社の「大麻止」が「大圓」「大丸」と変化し、地名になったとも云われている。

円照寺(えんしょうじ)
   
臨済宗建長寺派 大慈山圓照寺。
創立年不詳だが、境内に残る最古の板碑は永享十一年(1439年)。
天正十五年(1587年)隣の川崎市多摩区菅にある寿福寺の徒弟・明岳哲和尚が住職となり、
臨済宗へ転向したと伝わっている。
本尊は釈迦牟尼仏。明治以降は稲城第三小学校の全身である大円学舎として使用された。
『稲城の昔ばなし改訂版』に『舌を抜かれたお獅子』として逸話が掲載されている。

普門庵(ふもんあん)
 
臨済宗大徳寺派 萬松山普門禅庵。
延宝八年(1680年)に当地の地頭であった朝倉織部正豊が建立で、
荏原郡品川の臨済宗万松山東海寺の拙堂宗清が開山。
天保二年(1831年)に焼失したが、檀家信徒の寄付で再建。本尊は正聖観世音菩薩。

直心庵(じきしんあん)
 
曹洞宗 般若殿直心庵。本尊は釈迦如来像。
宝永二年(1705年)豊島郡新宿の曹洞宗護本山天竜寺の竺堂蘂仙が開山。
普門庵同様、朝倉織部正豊の寄進物が保管されている。

医王寺(いのうじ)
 
天台宗 國寶山甘露院醫王寺。本尊は薬師如来。開基不詳。
元文二年(1737年)府中の安養寺末となる。
大正時代に出火、消失。昭和17年に檀家信徒の力で再興された。
元々は入方地区にあったが、昭和五十三年に現在の場所に移転した。

但馬稲荷神社(たじまいなりじんじゃ)
 
御祭神は宇迦魂命。創建年代不詳。またここの地名「但馬新田」と共に「但馬」の由来不詳。
幕末期の嘉永・安政期(1848~60年)のころは繁栄を極めていたと伝承されている。

大丸城跡(おおまるじょうあと)
  
円照寺の西側にあった城、現在は削平され住宅地となっている。
『新編武蔵野国風土記稿』の大丸村の項では、
「土人これを城山と呼ぶ。登り一町余の山にて、上に堀の跡とおぼしき所あり、物見などせし所なるべし」
と記載され、是政の渡しから鎌倉へと至る古道の物見・監視を目的とした城砦だった思われる。
同地域近辺であった元弘の戦、中先代の乱、武蔵野合戦、享徳の戦などでは重要な拠点となったという。
また享禄三年(1530年)に上杉朝興が府中に出陣した際、後北条氏が小沢天神山城に本拠を置いた時の
物見櫓として使われたと考えられている。
太平記で有名な新田義貞がこの城を守ったという言い伝えもあるが、伝説の域を出てはいない。
注意していただきたいのは現在の「城山公園」は城山ではないという点。

是政の渡し(これまさのわたし)
 
是政の渡しは、現在の稲城市大丸と府中市是政を結ぶ舟渡しのこと。是政村が管理をしていた。
渡船場の位置は多摩川の流路変更によって、現在の橋付近をたびたび移動していたらしい。
舟渡しは昭和十年代まで稼働していたが、昭和17年に是政橋(当時は木造)が架かり役目を終えた。

瓦谷戸窯跡(かわらやとかまあと)
 
奈良時代の天平三年(741年)聖武天皇の命により、国ごとに国分寺・国分尼寺の建設が開始された。
東京(旧武蔵国)では現在も市名として残る国分寺、鎌倉時代以降に荒廃し、廃寺となった。
大丸でこの国分寺造営のための瓦が焼かれた。登窯式。川崎街道の多摩市境近辺にあったという。

大丸用水(おおまるようすい)

江戸時代前期頃よりあると思われる。近郷八ヶ村の組合用水だった。
この用水のおかげで400㌶の田に水をひけるようになり、日照りの悩みが解消されたと伝わる。
大丸村内には『菅掘』と『大堀』の他、数本が流れている。

多摩火工廠跡(たまかこうしょうあと)

正式名称は「東京第二陸軍造兵廠多摩製造所」という。
現在の稲城市立病院裏山一帯、米軍のサービス施設となっている。
太平洋戦争終結までは工員寮など、関連施設が大丸地区の大半を占めた。
当時の稲城村人口4500人程度に対し、3500名もの工員を抱える巨大な工場であった。
昭和二十年の終戦時まで弾薬が製造されていた。

十三塚(じゅうさんづか)
小名・権現山にあったといわれる。医王寺西側の丘が推定地。ただし現在は採砂場となっているため跡形もない。元弘三年(1331年)の新田義貞の鎌倉征討途上、分倍河原の合戦の死者を弔うために築かれたとも云われる。
実際に現存する十三塚は東京都内でも稲城市平尾のただ一箇所のみとなっている。


小地名解説

※順不同。上記地図の地名と照らし合わせてご利用ください。
※地名を探す際には「Ctrl+F」ボタンで検索文字列に入力すると便利です。
※使用写真は全て2010年10月頃撮影のものです。


加多(がた)
  潟とも。稲城第一中学校~稲城第三小学校のあたり。
  古多摩川が作りだした砂州(潟)があったということだろう。
 
広い平地に住宅街・畑・水田広がる。

萩原(はぎわら)
  大丸の東端、稲城長沼駅の西側。
  ハギはハリ(墾り)の訛りで、開墾された原という意味。

都営稲城第二アパート、第六保育園のあたりが比定地。

窪田(くぼた)
  文字通り、窪んだ土地にあった田圃ということ。

現在、当地には多摩稲城マンションが建っている。

宮ノ脇(みやのわき)
  今の稲城第三小学校あたり。
  宮は隣の長沼地区にある青渭神社を指し、その脇(横)の土地という意味。

第三小学校の正門を出て、道を渡ればすぐ青渭神社がある。

仲町(なかまち)
  旧川崎街道と用水沿いの道に挟まれた場所。
  仲は中で、道に挟まれた集落という意味であろうか。

玉川河原(たまがっかわら)
  多摩川川原とも。ここは江戸時代頃は旧多摩川の川原で、砂と赤土の畑があった。
  現在、多摩川は北へと大きく流路を変えている。
 
現在当地には、稲城第六小学校や市民プールのある大丸第二公園がある。

河敷(かわじき)
  河川敷とも。旧多摩川の河底という意味。

工業用製品製造会社『日本フィルコン』の本社がある。

竹ノハナ(たけのはな)
  JR南武線が通る、山崖の下あたり。タケ(ガケ、崖)のハナ(端)という意味。

崖を見ると、南山と同じ地質であることがわかる。

キタハリ(当て字無し)
  北墾りか?北にある開墾した湿田という意味。

多摩川から、現在の南多摩スポーツセンターあたりまでがキタハリか。

上河原(かみがわら)
  大丸用水が掘削される以前は多摩川の川原だったという。
  大丸村内で多摩川の上流部の川原という意味。

業務用麺の老舗「中西食品」の本社がある。

下河原(しもがわら)
  現在は下方と呼ばれるあたり。
  大丸村内で多摩川の最下流の川原という意味。
 
今は新築住宅と畑、水田が混在した閑静な地域となっている。

河原方(かわらがた)
  旧多摩川の川原であった場所。

近くには「河原方」を冠した公園があった。

但馬新田(たじましんでん)
  但馬稲荷神社の東側にあった水田。
  「新田」は新たに開墾した水田という意味だが、但馬については詳細不明。
  但馬守を名乗る役人が開墾に関わったのだろうか?
  ちなみに但馬は旧令制国で、現在の兵庫県北部にあった国のこと。

当地にある但馬稲荷神社は、住宅街に忽然と現れるので驚かされる。

当新田(あてしんでん)
  アテは荒れた湿地のこと。江戸時代に新たに開墾したのだろう。
 
現在、近辺には水田は見当たらないが、道路に名前が残っている。

閑古島(かんきょうじま)
  勘居島とも。カンキョとは岩山のこと。
  岩山のあった多摩川の中の島ということであろう。

中の島であった面影はなく、清冽な用水路が流れる。

曲根ノ内(かねのうち)
  カネは曲がった低湿地という意味。その縁か、または内側ということであろうか。
  もしくは「堀之内」や「竹ノ内」のような中世居館を表すのと同様に、「垣根の内」という
  ことであれば武士の存在も感じられて面白いのだが。

付近には今も水田があり、撮影当日は刈り取り・干し作業をしていた。

弁財天(べんざいてん)
  弁天とも。弁天様は河川や水を神格化した神様。
  その小祠があり、地名の由来となった。
  現在、弁天様の祠は川崎街道沿いの東京電力稲城変電所の傍に移設されている。
  
オートバックス裏には、「大丸弁天児童公園」が設置されている。

松木田(まつきだ)
  マツチ(真土)の水田か、もしくはマツ(真土)+キダ(自然の堤防)ということか。
  どちらにせよ耕作に適した真土の土地であったようだ。

今ではファミリーレストラン等が林立する場所だが、土地の一角にはお地蔵さんが。

古宿(フルジュク、コシュク)
  旧川崎街道沿いの場所で、古くから民家が集まった集落という意味であろう。
  もしくは、街道沿いなので少しは宿屋を兼業した農家もあったものだろうか。
 
新川崎街道と旧川崎街道の追分から水道局や第三分団詰め所などが密集している。

引妻田(ひきつまだ)
  ヒキ(低い)+ツマ(隅っこ)+田で、隅の低水田ということか。

都営稲城アパート(大丸アパート)が建つ。

三枚分(さんまいぶん)
  サンマイは三昧で、故人の冥福を祈る三昧堂のこと。
  その維持管理に必要な費用を捻出する耕作地だったのだろう。
 
住宅街の中を通る用水路沿いには、綺麗な花達が咲いていた。

五反田(ごたんだ)
  その名通り、五反(5000平米近い広さ)の大きな水田があったということだろう。

御岳堂(みたけどう)
  御嶽堂とも。現在では向陽台の一部になっているが、この場所の後ろの山は御岳山という。
  多摩郡御嶽村(現青梅市)の御嶽神社の分祀があったと推測される。
  付近には今も火難盗難除けの御嶽神社の「御犬様の御札」を掲げる家があるとか。

山麓には小さな地蔵堂が建立されていた。

天神下(天神下)
  天神山ノ下とも。現在では向陽台の一部となっている天神山の下ということ。
  山麓から山崎街道の間の地名。

小さいながら「天神山下公園」が整備されている。

貝戸田(かいとだ)
  カイト(山と山の間)なので、山間の水田という意味。
 
神社の山から貝戸田付近を遠望。

中村(なかむら)
  新川崎街道と中村通りの間の地域を指す。
  村内で中心の集落という意味で、旧家が多い。今も昔も大丸の中心的な地域だ。
 
大丸交差点付近。今でも旧家が残る。

砂場(すなっぱ)
  JR南武線の南多摩駅あたり。
  名前の通り、稲城砂層の畑であり、昔は桑畑が多くあったらしい。

南多摩駅前のロータリーは狭い。

二妻子田(ふたつまごだ)
  稲城市立病院から大丸公園のあたりと云われている。
  フダ(砂地)+ツマ(隅っこ)で、谷戸川に沿った砂気の多い水田という意味か。

「大丸公園」は谷戸川の親水公園となっている。

谷(やと)
  谷戸川沿いの谷(湿地)といった程度の意味であろう。
  現在は米軍多摩レクリエーションセンターの敷地内となっている。

柵があるため付近には行くことができない。

藤三郎下(とうざぶろうした)
  現在の稲城市立病院が建っているあたり。
  付近に藤三(とうざぶ)という場所があり、その下にあたる場所ということ。
  タフ(湿地)+サメ(沢)+ロウ(峡谷)で、開墾した湿地の沢の下ということであろうか。

病院の裏手が「藤三」という場所だったのだろうか。

北山(きたやま)、北山下(きたやました)
  権現山とも。大丸村の中心集落から見て北側にある山だから北山か。
  そして、その北麓の水田地域を北山下と呼んでいた。

私立病院から川崎街道を挟んでに見る「北山」。

権現堂(ごんげんどう)
  医王寺が入方から当地へ移転してくるまでは、ここに権現堂があったとのこと。
  そのため前述の通り、北山が権現山とも呼ばれていた。
  『新編武蔵国風土記稿』に「権現社、権現山にあり、何権現かを知らず」と記載されている。
  熊野三社権現の名残であると推測されている。

医王寺のペット施設に「観音堂」の文字があるが、権現堂とは無関係だ。

浄海(じょうけい)
  現在のJR武蔵野貨物線が多摩川を渡り、トンネルに入る場所。
  ジョウ(山や畑)+カイ(山襞)という意味。
  実際の当地に行くと、幅広い多摩川が浄土の海にも見えるが、地名に関係はないそうだ。

浄海付近から多摩川を見下ろす。

大窪谷(おおくぼやと)
  大久保谷とも。幅広の大きな窪んだ傾斜地という意味。
  近辺に大久保姓が多いこととは関係ないのだろうか?
 
トラックの出入りが激しい山道がある。また、小さな祠(稲荷?)もあった。

風破井(かざへい)
  カサ(上)のハエ(小平地)で、山上の小さな平地という意味。

南多摩スポーツ広場から、風破井を撮影。

一ノ谷(いちのたに)、二ノ谷(にのたに)、三ノ谷(さんのたに)、四ノ谷(よんのたに)
  多摩川沿いに下流部から1・2・3・4と順番に続く連続した谷。
  古代の先人が、川沿いを西上しながら見つけた順番で付けた名前であろう。
  現在、谷は埋め立てないし削平され、一ノ谷は南多摩スポーツ広場、
  二ノ谷・三ノ谷は南多摩水再生センター、四ノ谷は清掃工場になっている。
  
谷が4つもあった面影は、今は全く見られない。水再生センターは消防団の訓練施設でもある。

一ノ山(いちのやま)
  一ノ谷の東側の山。谷と同じく東から数えて1番目の山ということだろうか。

多摩川対岸から撮影。中央左の山が「一ノ山」。

三ノ谷下(さんのたにした)
  三ノ谷を多摩川へ下りた場所。ここも開墾されていたとのこと。

雑草が茂る多摩川河岸になっている。

瓦ケ谷戸(かわらがやと)
  国分寺の瓦を焼いた窯があった谷。
  江戸時代以降、ここから多くの瓦が出土したために地名となったのであろう。
  詳細は名所旧跡「瓦ケ谷戸」を参照。

川崎街道の稲城市最西端。ここから先は多摩市になる。

明神バケ(みょうじんばけ)
  明神崖。谷戸川北岸の崖、現在は川崎街道になっている。
  明神社のある崖という意味だが、何明神があったかは不明。
  大窪谷にある小祠がここから移設されたものだとすると面白いのだが。

実際の場所からやや東部よりの山麓部はコンクリート崖となっている。

カゾウバケ(当て字無し)
  バケはハケで、多摩地方で崖のこと。
  カゾウはカゾで、和紙の原料になる楮(こうぞ)のことか

現在の当地は、多くの工場や産廃関連施設が立ち並ぶ。

横掘(よこぼり)
  今も川崎街道沿いを流れる谷戸川(西から東に流れる)に対して、
  横(南から北へ)に掘った水路があった場所。現在は桜ケ丘CCの内部になっている。

今では川崎街道が拡幅整備されたため、堀は見られない。

舟ケ台(ふねごだい)、北舟ケ台(きたふねごだい)、西舟ケ台(にしふねごだい)
  船底形の台地という意味。現在は米軍多摩ゴルフ場の敷地内となっている。
  延享三年(1746年)に台地の原野を開墾し新畑としたという記録がある。

川崎街道から北舟ケ台を見る。見事に舟底形の台地である。

長谷(ながやと)
  舟ケ台と西舟ケ台の間の細長い谷地のこと。水田があった。
  現在は米軍多摩ゴルフ場の敷地内となっている。

丸谷(まるやと)
  文字通り、丸く窪んだ谷ということ。ドンドンと呼ばれる湧水の滝があったという。
  現在は米軍多摩ゴルフ場の敷地内となっている。
  『稲城の昔ばなし改訂版』に『大丸村の夜泣き石』として逸話が掲載されている。

梅ノ木谷(うめのきやと)
  大丸で最も大きかった谷戸のひとつ。
  東側には「梅ノ木台」とよばれる標高138mの台地があり、その西にあたる谷。
  梅の木が生えた台地という意味で、その下の谷戸ということか。

梅ノ木谷、細田谷へと続く道が見える。鉄柵がとても邪魔。

甚九郎谷(じんくろうやと)
  ジン(小さな谷の小平地)+クロ(隅)で、小さな谷の平地の隅の谷地という意味になる。
  もしくは江戸時代中期に「甚九郎」なる人物が開墾した谷ということか。
  現在は米軍多摩レクリエーションセンターの敷地内となっている。

現在、谷の下部には厩舎が建てられているようで、数頭の馬が闊歩していた。

細田口(ほそだぐち)
  細田は細い山間の水田、口は出入り口という意味なので、細田谷への入口ということか。
  現在は米軍多摩レクリエーションセンターの敷地内となっている。

谷戸川が米軍敷地内から出る場所。この少し上流部が「細田口」か。

細田谷(ほそだやと)
  細谷、細田とも。北舟ケ台東側の細い谷。
  文字通り、山間の細長い谷戸である。
  現在は米軍多摩レクリエーションセンターの敷地内となっている。

喜右衛門谷(きえもんやと)
  「キエモン」というのが地形由来ではないらしい。
  喜右衛門さんが開発した谷という説が有力。
  現在は米軍多摩レクリエーションセンターの敷地内となっている。

水附谷(みつけやと)
  大丸で最も大きかった谷戸のひとつ。
  ミツケは「見付け」で、新しく見付けた谷ということ。
  「水」の当て字は、いつも水に浸かっている様子を表したものか。
  現在は米軍多摩レクリエーションセンターの敷地内となっている。
 
米軍施設の入り口が、水附谷の入り口。奥へ長い谷が遠望できる。

石臼窪(いしうすくぼ)
  現在の稲城市立病院南側にあたる。
  石臼のような半円筒形の窪地という意味。
 
病院の裏手にある道沿いには、不思議な小平地があった。

爪ケ台(つめごだい)
  爪の形をした台地、もしくはツメ(詰め・隅)の台地という意味か。
  現在は米軍多摩レクリエーションセンターの敷地内となっている。

狸窪(むじなくぼ)
  狢窪とも。この地方では狸を狢と混同して呼んでいる。
  狸が住み着いていた窪地ということであろうか。
  南側には狸山(むじなやま)、現在の城山公園がある。

向陽台から南多摩駅へと降りてきた場所あたりが比定地。

城山(しろやま)
  現在は住宅地として削平されてしまったが、かつてはここに標高76mの城山があった。
  何故か現在は向陽台側(狸山から大谷にかけて)に城山公園が設置されているが、
  大丸城があった場所はこちらが正しい。
  何故、城山を残さずに狸山を残し、そこを城山公園と名付けたか、正直理解できない。
  詳細は名所旧跡「大丸城」を参照。
 
城山跡から大谷方面を見る(左)。大丸城の説明板付近(右)。

入谷(いりやと)
  狸窪の西隣、現在の大丸公園の奥。
  入り込んだ谷戸という意味。
 
公園奥の駐車場あたりが「入谷」らしい。

入方(いりがた)
  大麻止乃豆乃神社の北側、旧家が多くある場所。
  イリ(山寄り、西)+ガタ(入江・潟、または方向)なので、西方の山寄りの入江ということか。
  『大丸』の語源となった『大麻止の津』があった場所と云われ、古代は多摩川の港であった。

東方(ひがしかた)
  西の「入方」に対し、東にあるので「東方」という。
  さらに東南の「加多」も合わせて考えると、現在の山崎通りは古多摩川の流路であったか。

付近にある「東方公園」は第四保育園のすぐ傍。

神明(しんめい)
  神明様(天照大神)の小祠があったという。

山崎(やまざき)
 天神山から御岳山にかけての山麓地区。山の先という意味。
 
山崎公園には手漕ぎ井戸も設置されており、夏場は楽しめそうだ。


★現・向陽台分★ 地図内の青文字表記部分
※『百村・向陽台』を参照のこと。

常連寺(じょうれんじ)
  現在の「ビュープラザ向陽台」裏手あたりの斜面が比定地か。
  山の反対麓にあたる窪地(現米軍施設内)に常連寺という寺があったと云われている。

奥のマンション裏手の山斜面が常連寺と推測される。

狸山(むじなやま)
  狢山とも書く。標高は最高点で135m余り。現在の城山公園(稲城第一公園)の山のこと。
  近くの坂下(大丸側)には狸窪という名前もあり、狸(この地方では狸を狢と呼んでいた)が多く居たか。
  ちなみに、城山公園は本当は城山ではなく、向陽台から南多摩駅へ坂を下る右手側が城山であった。
 
なんと一の丸~十の丸まであるという城山公園。
城跡でもないけども、城っぽい名前を付けてみたのだろうか。
しかし、公園としては非常に野趣と整備が調和した素晴らしいものである。

大谷(おおやと)
  稲城市中央図書館、生涯学習センターとその前面道路あたり。
  文字通り、大きい谷という意味。
 
稲城市中央図書館、生涯学習センター(左)。
谷戸奥にあたる城山公園の『八の丸』には清水が湧いている(右)。

和哥蔵(わかんぞう)
  ワカン(綰ぬ、ワガヌの訛り)は大きく曲がった輪、ゾウ(ゾレの訛り)は崖崩れという意味で、
  大きく湾曲した山、谷といったことだろうか。今の「アルボの丘」から「季乃彩」に下るあたり。

陸橋から季乃彩方面を望む。右手の山と谷が和哥蔵あたりか。

谷山(やとやま)
  文字通り、谷のある山という意味。

アルボの丘三番街の東側から撮影した谷山。

孫六谷(まごろくやと)
  マ(狭間)+ゴロ(礫地)+ク(崩れ)の谷戸という意味だろうとされる。
  または現地が扇状地を成しているので、ロクはロウ(扇状地)の訛りか?
  正対した南の百村側にも同名の地名あり。
 
アルボの丘裏手より、大丸神社へ下りる近道が孫六谷。
右の写真は麓側から撮影した谷に沿った住宅街。

打越(おっこし) 上・中・下
  山稜に尾根道が続いていた場所。
  打越とは「尾根(山)を大きく越す」という意味。丘陵地の古道添いによく見られる地名。

打越と呼ばれた場所は、今の多摩ニュータウン向陽台六丁目団地あたり。

天神山(てんじんやま)
  菅原道真を祀る祠でもあった山であろうか。詳細不明。
  現在の城山小学校辺り。山下に「天神下」の地名あり。
  標高が高いため、付近には給水塔も建っている。
 
城山小学校(左)。山麓より天神山の給水塔を見上げる(右)。

御岳山(みたけさん)
  大丸側の山の麓には御岳堂があった。
  山岳信仰の御岳(青梅の御嶽神社が有名)に擬えられた山だったという。
 
今のビスタセーレ向陽台あたりが御岳山(左)。麓より御岳~天神山の山稜を望む(右)。



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